ハイセイコー人気はブームを超えて社会現象へ
ハイセイコーの登場は「地方の怪物が中央の舞台に殴り込み」といったニュアンスで騒がれ、「怪物」という2文字が競馬に限らずスポーツ各紙やマスコミ全体をにぎわす嚆矢となったようで、「ハイセイコー」「怪物」というキーワードは競馬ファンという枠や業界を超えていきます。
例をあげれば、ハイセイコー中央デビューの4か月後、昭和48年7月に『忍ぶ雨』でデビューした歌手の藤正樹には「演歌の怪物ハイセイコー」というキャッチフレーズがつけられ、同年の甲子園で圧巻の投球を披露した江川卓(作新学院3年)には「怪物」という称号が与えられました。
近年、競馬界でも三冠馬コントレイルやドバイシーマクラシック等G1レースを6連勝したイクイノックスが「怪物」と称されていますが、実績では大きく勝るこの2頭でさえ、実はハイセイコーの足元にも及ばない側面がありました。それは、日本中を席巻した競馬ファン以外への認知度と人気です。
ハイセイコー同様、地方競馬から中央に移籍して国民的な人気を得た馬がもう1頭います。みなさんもよくご存じのオグリキャップです。オグリキャップはアイドルホースとしての道を歩み、オグリ人形が登場するほどの人気者(人気馬か)になりましたが、中央デビュー時の状況はハイセイコーのときとは雲泥の差で、「熱狂」と呼ぶには程遠いものでした。
ハイセイコー人形は登場しませんでしたが、週刊漫画雑誌『少年マガジン』1973年6月17日号(第26号)の表紙をハイセイコーが飾るという前代未聞の出来事が起きました。
競走馬が少年誌の表紙に登場するというのは、大事件でしょう。まだギャンブル臭が濃かった競馬のイメージを1頭の馬が払拭し、漫画雑誌愛読者たちに競馬場を「ハイセイコーのようなお馬さんが競争する明るい社交場」へと印象付ける役割を果たしました。
JRAには「中央競馬の発展に多大な貢献のあった競走馬に与えられる「JRA顕彰馬」制度があります。1984年に制定され、細かな選考方法は省きますが、現在までに38頭の名馬が「殿堂入り」しています。
その中の1頭としてハイセイコーも選出されていますが、生涯22戦13勝のうち、中央競馬16戦7勝(皐月賞、G1格付けされていなかった頃の高松宮杯、宝塚記念を含む)という戦績は他の顕彰馬と比べ勝率も内容も見劣りする数字です。
ちなみに前出のコントレイルは11戦8勝(うちG1、5勝)、イクイノックスは10戦8勝(うちG1、6勝)という数字です。されど、されど、前述のようにコントレイルもイクイノックスもハイセイコーという「人気の怪物」には競馬ファンの拡大という最も重要な役割の点において一歩も二歩も譲らざるを得ません。
昨年、海外で大活躍し、先頃2025年度の年度代表馬に選出されたフォーエバーヤングでさえ、当時のハイセイコー人気を知る者にとって庶民への認知度は遠く及びません。ハイセイコーこそ今ある競馬ブームの礎を築いた1頭であり、競馬人気とファン層を大きく広げた最大の功労者、いや功労馬といえるでしょう。単なるブームでなく社会現象といえる広がりを見せたのですから。
ハイセイコー引退後、中央における主戦騎手だった増沢末夫が歌うシングルレコ―ド『さらばハイセイコー』が発売され、オリコン第4位まで上昇、なんと50万枚を売り上げます。その後、パンダなどの実在の動物を扱ったレコードやCDはいくつも発売されますが、売上枚数と知名度でハイセイコーにまさるものはありません。
デビューから54年、死亡から26年、ハイセイコーが公営時代に全6戦を戦い2着馬に合計56馬身という着差をつけた懐かしの大井競馬場。その大井での最後のレースとなった青雲賞は、現在「ハイセイコー記念」と名を改め、現2歳馬の出世レースとして知られています。
このレースのレコード記録(1分39秒2)はハイセイコーが記録したもので、半世紀以上を経た今でも破られていません。ハイセイコーは人気だけでなく強豪馬としても名を残しています。
私の住む東京・大森から車でほど近いところに大井競馬場があります。競馬場の入口をくぐり抜けると、すぐ右手にハイセイコーの等身大の銅像が建っていて、競馬場を訪れたファンたちを迎えてくれます。
「また、来たよ」と心の中で声を掛けるとき、私の脳裏には中央で活躍していた姿と同時に、この競馬場で疾走していたあの記事コピーの写真、若きハイセイコーの雄姿が甦るのです。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)