ザルジニー氏の解任の経緯と背景

 本項は、新潮社フォーサイトの田中祐真氏著「軍総司令官解任から駐英大使任命へ、『ザルジニー人事』に垣間見える『チーム・ゼレンスキー』の不安と目算」(2024年3月15日)および東洋経済オンラインの吉田成之著「『兵士の命優先』で解任されたウクライナ軍総司令官侵攻から丸2年、ウクライナ大統領が思い知った現実」(2024年2月1日)などを参考にしている。

(1)全般

 2024年2月8日、ウクライナのゼレンスキー大統領は、ザルジニー総司令官を解任し、陸軍司令官であったオレクサンドル・シルスキー将軍を新たな総司令官に任じた。

 ザルジニー氏には「ウクライナ英雄」勲章が授与されたものの、国民からの人気が非常に高い同将軍の解任と、知名度は低いがゼレンスキー氏から気に入られているとされるシルスキー氏の最高司令官への就任については、ゼレンスキー氏とその周辺による政治的思惑に関する憶測や推測を呼んだ。

 その後2024年3月7日、ゼレンスキー氏はザルジニー氏の駐英大使任命の意向を発表した。

(2) 解任までの経緯

ア. 戦況(膠着状態)を巡る対立

 ロシアによる全面侵攻の開始以降、ゼレンスキー大統領とザルジニー総司令官の間での方針やスタンスの相違については以前からたびたび報じられてきた。

 2023年の反転攻勢が満足な成果を上げられなくなって以降、特に注目されたのが、2023年11月1日に英エコノミスト誌に掲載されたザルジニー氏のインタビューであった。

 このインタビューにおいて同氏は、戦争が長期化する中で次第にロシア軍優位の状況に向かっており、戦況が「ステイルメイト」(膠着状態)となりつつあるため、ドローンの活用や電子戦の強化、対砲兵戦と地雷対策への注力、そして兵員の確保の必要性を指摘した。

 これに対し、ゼレンスキー大統領は同年11月4日の記者会見で、ロシア軍との戦況が 膠着しているとしたザルジニー総司令官の分析を「今の状況は膠着ではない」と否定した。

 これにより、両者の対立構図が取り沙汰されるようになった。

イ. 動員を巡る対立

 2023年12月19日、ゼレンスキー大統領は記者会見で、軍が最大50万人の追加動員を望んでいると明らかにした。

 一方、12月26日会見した軍トップのザルジニー総司令官は、「(50万人という)人数について要請はしていない」と反論した。

 ウクライナの国営メディアによると、ザルジニー氏は12月26日の記者会見で、「私は徴兵事務所の働きぶりに満足していない」と述べて、追加動員を加速させたい考えを明らかにした。

 軍トップのザルジニー氏が会見を開くのはロシアによる侵攻開始後初めてで、ゼレンスキー氏との間で不協和音が生じていると見られていた。

ウ.ザルジニー総司令官、ゼレンスキー大統領の戦争方針を暗に批判

 ザルジニー総司令官は、2024年2月1日に公開された米CNNへの寄稿で、侵略を続けるロシアに対抗するためには無人機や無人システムの整備充実など「新しい技術に基づく再軍備」が必要だと強調した。

 ザルジニー氏は、兵力の規模や動員力など「人的資源ではロシアに優位性がある」と認めた上で、ウクライナは無人兵器やサイバー攻撃などを組み合わせ、武器や装備を節約しながらロシアに損害を与える必要があると強調した。

 ザルジニー氏は2024年1月、ゼレンスキー大統領から総司令官の解任を伝えられたと報じられていた。

 CNNによると、寄稿は解任報道の前に書かれたといい、ゼレンスキー氏の戦争指導方針を暗に批判したとみられている。

エ.解任についての憶測

 ロシアによるウクライナ侵攻から満2年を間近に控えた2024年2月上旬、ゼレンスキー大統領が大きな決断を下した。

 ザルジニー総司令官の解任である。

 この解任について、国民に人気の高いザルジニー氏が将来の大統領選で政治的ライバルになることを恐れてゼレンスキー氏が排除した、との内外での憶測があった。

 こうした憶測が出た背景には、ザルジニー氏への国民の期待感の高まりがある。

 2023年6月に始まった反攻作戦が不発に終わったものの、それでもザルジニー氏の人気は高まった。その理由の一つが西側流の軍事教育を身に付けた同氏の近代的作戦指揮である。

 ザルジニー氏は1973年7月8日生まれの50歳(当時)。北大西洋条約機構(NATO)に派遣され、西側の軍事訓練を受けたザルジニー氏は、旧ソ連からウクライナが独立した後に軍事教育を受けた世代出身で留学組の第1期生となる。

 兵士の犠牲を極力少なくしようとする流儀が兵士本人や兵士家族から支持されていた。

 もう一つの要因は、明るい人柄。周囲からの人望があった。

 2023年12月、国際社会学研究所(キーウ)による世論調査では、ザルジニー氏を「信頼する」との回答が88%に上った。

 一方でゼレンスキー氏を「信頼する」は62%で、2022年末の84%から大幅に下落した。

オ.公表された解任の理由

 2024年2月8日、ゼレンスキー大統領は険しい表情でビデオ演説し「我々は以前に比べ、勝利について話すことが減っている」と吐露した。

 前進できないウクライナ南部、ロシア軍の猛攻を受ける東部の戦況により「国民のムードにも影響した」と国民の戦意低下を指摘し、軍の立て直しのため「リセット」が必要だと強調した。

 曰く「これは名前の問題でも、国内政治の問題でもない。軍のシステムやウクライナ軍の管理の問題である。ザルジニー氏との率直な意見交換の結果、緊急の変更が必要との意見で一致した」と強調した。

カ.解任の最終的引き金

 当時、ゼレンスキー大統領としては、ロシア軍の攻勢に耐え、現在の戦線を守って維持するいわゆる「戦略的防衛」のみで2024年を終える気持ちはなかった。

 ゼレンスキー大統領としては、2024年7月のワシントンでのNATO首脳会議に向けウクライナ軍が攻勢を展開し大きな成果を上げることを目指していた。

 ウクライナ軍の反攻能力健在を誇示して、NATO加盟交渉入りの合意達成に向け弾みをつける政治的効果を狙っていた。

 しかしキーウの軍事筋によると、驚くべきことが起きた。

 2024年1月末、軍総司令官としてこの攻勢を指揮することにザルジニー氏は消極的態度を示したという。西側からの武器が揃うまでは、戦争はできないと主張したのだ。

 これが解任の最終的引き金になったと見られている。

キ.今年戦争ができる司令官の採用

 2024年のウクライナ軍の戦略を巡っては、米国政府がウクライナに対し、防御専念を求めていると一部の米メディアが報道した。

 しかし、軍事筋はこれに関連して「そもそもバイデン政権はウクライナが攻勢に出ること自体には反対していない」と強調する。

 しかしザルジニー氏は、いたずらに攻勢に出れば戦死者が増えることに懸念を示した。

 このため、ゼレンスキー政権として「今年戦争をできる司令官を採用」すべく、新たな総司令官にオレクサンドル・シルスキー陸軍司令官を任命したという。

 シルスキー氏は、1965年7月26日生まれの58歳(当時)。ソ連時代に軍事教育を受け、西側への留学経験もない旧ソ連軍色の濃い司令官である。

 2022年秋にウクライナ軍は東北部ハリコフ州の要衝イジュムを奇襲によってあっという間に陥落させたが、この巧みな作戦を指揮したのが東部を仕切る司令官のシルスキー氏だった。

 また、2023年の東部要衝バフムトを巡る激戦では、ウクライナ軍側に多数の戦死者を出すことを厭わなかったとして部下から批判が出たとされる。

(3)筆者コメント

 ザルジニー総司令官は、2023年11月1日の英エコノミスト誌とのインタビューで、ロシア軍に大打撃を与えモスクワを交渉のテーブルに引き出すという戦略は失敗したかもしれないと述べている。

「それは私のミスだった。ロシアは少なくとも15万人の死者を出した。他の国であれば、これほどの死傷者を出せば戦争は止まっていただろう」と述べた。

 旧ソ連のアフガニスタン侵攻(1979~89年)でのソ連兵の死者は、10年間で約1万4000人であった。

 ところが、今回は2年足らずで15万人の死者である。ザルジニー氏が、他の国であれば戦争は止まっていただろうと考えても仕方ないと筆者は見ている。

 ところで、米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)は2025年6月3日、ロシアによるウクライナ侵略に関する報告書を公表した。

 2022年2月の侵略開始後のロシア軍の死者数は最大25万人程度で、第2次大戦後の合計死者数の5倍に達したと推計した。

 ウクライナ兵の死傷者数の合計は40万人ほどで、そのうち死者は6万~10万人と見積もった。

 25万人の犠牲者に釣り合うロシアの政治的目的とは何なのであろうか。プーチン大統領の政治目的とは何か。

 それは、ウクライナをかつてのソ連の衛星国であった東欧諸国のようなロシアの衛星国にすること、並びにウクライナ東部および南部の4州およびクリミア半島をロシアに割譲させることであろうと筆者はみている。