八海山をバックに走る。左側の赤い車両が「ゆめぞら」だ
(山﨑 友也:鉄道写真家)
第三セクターの優等生「北越急行」
今の時期は越前ガニや寒ブリなど、北陸のグルメを食したり温泉地へ向かう人たちで賑わいをみせている北陸新幹線。2024年に金沢~敦賀間が延伸開業し東京と北陸各地を結んでいるが、最初に開業したのは1997年で、区間は高崎~長野間のわずか117kmほどだった。それから金沢まで延伸するのに、なんと18年もかかっている。
その頃に首都圏と北陸地方を往来する最短ルートといえば、まず上越新幹線で越後湯沢へ向かい、そこから特急「はくたか」に乗り換えるというものだった。「はくたか」は途中の六日町から北越急行ほくほく線を経由して、犀潟から信越本線と北陸本線などを走って福井や和倉温泉まで結んでいた。この北越急行は第三セクターだが首都圏と北陸地方を行き来するお客さんのおかげで開業当時から毎年数億円の利益を出し続け、「三セクの優等生」と呼ばれていた。
北越急行の歴史は1931年にさかのぼる。ほくほく線の沿線は日本でも有数の豪雪地帯であり、当時の自動車の性能や道路事情、除雪能力などから、冬期の各地への移動は困難を極めていた。そこで松代で貨物やバスの運行を手がけていた松代自動車の創設者である柳常次氏は、鉄道の敷設を代議士に訴えた。これがほくほく線誘致運動の始まりだ。
熱意が実りその翌年には南魚沼から中魚沼、頸城を経由して直江津に至る路線が貴族院、衆議院で採択された。だがその後は別ルートが検討されるなど紆余曲折あって30年あまり進展がなかったが、1964年にようやく現在のルートが工事線に指定された。
こうして1968年に工事が着工したほくほく線(当時は北越北線)だが国鉄の赤字は深刻さが増すいっぽうで、1980年に日本国有鉄道経営再建促進特別処置法、いわゆる国鉄再建法が制定され、北越北線をはじめ輸送密度4000人以下の地方新線は工事が凍結されることとなってしまった。
だが地元の人々は諦めず、沿線自治体や銀行、企業などの出資による第三セクター方式による鉄道の運営を決意し、1984年に北越急行株式会社が設立され、1985年に工事が再開された。
転機が訪れたのは1989年。国が北越北線を首都圏と北陸地方を結ぶ基幹鉄道と位置づけ、電化および高規格化の路線へと変更されたのだ。これにより1997年の開業時から最高速度140kmで走る「はくたか」の運行がスタートし、北越急行は華々しいデビューを飾る。さらに「はくたか」は2002年から当時の在来線特急の最高速度である160kmに引き上げ、両地方間のさらなる時間短縮に貢献した。そして先述したように毎年黒字を積み上げ続けていくのであった。
かつて日本最高速度で走っていた特急「はくたか」
しかしである。同じ年に開業した北陸新幹線は、いずれ延伸することが決まっていた。新幹線が延伸すると首都圏と北陸地方とのメインルートはそちらに奪われてしまうのだ。事実、2015年に北陸新幹線長野~金沢間が開業すると、収入の9割を担っていた「はくたか」は廃止されてしまった。この時点で今後30年間は経営が続けられる貯金があったとされているが、「はくたか」廃止翌年のゴールデンウィークやお盆の輸送実績はともにマイナス80%を越えており、貯金をいかに取り崩さずにやっていくかが今後の鍵となるだろう。