現上皇と上皇后が火葬を希望される理由
わが国は仏教伝来までは、純然たる「神の国」だった。だが、6世紀に仏教が入ってくると、神道の最高祭主である天皇が外来の宗教である仏教に帰依し、自らが僧侶になるという、妙な形態を辿る。他方で仏教を毛嫌いする天皇も現れた。
つまり、仏教式の火葬を選ぶ天皇がいれば、本来の土葬を好む天皇もいたのだ。しかし、1654(承応3)年に崩御した後光明天皇から昭和天皇の時代まで、天皇および皇后の埋葬法は神道式の土葬となっている。特に幕末の孝明天皇や明治天皇、大正天皇、昭和天皇の埋葬は純然たる神道形式の土葬墓である。
これは明治に入って国家神道体制に切り替わり、天皇家が仏教と訣別したからだ。それに伴い、神仏習合時代は自由かつ柔軟であった埋葬法が、明治期に入って本来の神道式に回帰したのだ。
なお、現上皇と上皇后は、土葬ではなく、火葬を希望されている。それは、「殯(もがり)」という肉体を朽ちさせる儀式の負担や、それに伴う喪の期間の長期化による経済的影響などを考慮した結果である。現上皇は土葬を否定し、火葬を奨励されているわけではない。葬儀の負担を軽減させるための策として火葬を望まれているのだ。
昭和天皇陵は土葬墓
次に、習俗の面から火葬をみていこう。
江戸時代までは、各地で火葬と土葬が混在していた。おおまかに言えば、大阪や京都、江戸の中心(大都市部)、および北陸など浄土真宗の勢力地では火葬文化が花開いたとされる。浄土真宗と火葬との関係性は、真宗門徒は「本山納骨」といって、火葬骨を分骨して、一部を京都の本山に納骨する信仰形態を持つからである。
だが、明治初期、ドラスティックな動きがあった。神仏分離令が発せられて、火葬が禁止され、完全土葬に切り替わったのである。例えば、都立青山霊園や雑司ヶ谷霊園、谷中霊園などは神葬祭の土葬墓地として整備された経緯がある。
土葬墓地として整備された都立青山霊園。墓が傾いているのは土葬でできた空洞のせい。
もっとも、混乱が生じ、すぐに火葬が容認された。そして、各地に火葬場が建立された結果、わが国では火葬が急速に拡大していった。