繞石と号す
大学在学中、大谷正信は河東碧梧桐らの紹介で、近代俳句を唱道する正岡子規と出会い、俳句の道に第一歩を踏み出した。
明治30年(1897)、22歳の時には、郷里の松江に子規派の句会「碧雲会」を発足するために尽力している。
ここで大谷正信は「繞石」と号し、明治30年から大正3年(1914)にわたって、松江を往来して俳人の指導を行い、俳句の普及に努めた。
なお、繞石の読みは、「じょうせき」とする説もあるが、「ぎょうせき」とする説が有力だという(冨沢佐一『漱石と広島』)。
夏目漱石との親交
明治32年(1899)、大谷正信は大学を卒業すると、東京での下宿先であった大河内家の娘「きく」と結婚した。24歳の時のことである。
大学卒業後は、京北中学校の英語講師、兵庫県の洲本中学校の教諭、真宗大学の教授など経て、明治41年(1908)に、金沢の第四高等学校の教授に就任している。
明治38年(1905)頃には、夏目漱石と知り合った。
大谷正信は夏目漱石に対し、同じ英文学者として尊敬と親しみの念を抱いたという。
夏目漱石は大谷正信に借家の紹介や、教え子の就職の斡旋を依頼しており、二人はそういった依頼ができるような間柄だったのだろう。
大谷正信は明治42年(1909)にイギリス留学を命じられると、イギリス留学の経験のある夏目漱石に、イギリスでの生活について尋ねている。
また、留学前に明治天皇に拝謁した際には、漱石から燕尾服を借りていた(以上、原武哲 石田忠彦 海老井英次編『夏目漱石周辺人物事典』)。
明治42年から2年間、大谷正信は文部省の外国留学生としてイギリスに留学し、ロンドン大学で英文学を学んだ。
帰国後は第四高等学校に戻ったが、大正13年(1924)、新設の広島高等学校の教授に招聘され、昭和8年(1933)11月17日、広島の地で、病のため没した。58歳であった。