父の事業の失敗

 明治25年(1892)7月、大谷正信は島根県尋常中学校を卒業した。

『己がこと人のこと』によれば、この中学校卒業前に、父・大谷善之助が新しい商売に手を出し、大失敗している。

 そのため大谷正信は、「大学に進んでからの学資は、けっして家郷から仰がぬ」との誓約のもと、同年9月、京都の第三高等中学校予科第一級へ進学した。明治27年(1894)には、学制改革(大学予科の解散)により、仙台の第二高等学校へ転校している。

 両校では正岡子規の弟子にあたる高浜虚子(たかはまきょし)と河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が同級生だった。

 大谷正信は両者の影響で俳句をはじめ、やがて傾倒を深めていく。

恩師ハーンとの再会

 明治29年(1896)7月、第二高等学校を卒業した大谷正信は、同年9月に東京帝国大学文科大学英文科に入学している。

 だが、父の家業は倒産しており、学資の送金は途絶えてしまう。

 そんな中、奇遇にもハーンが、同年同月、英語科講師として、同大学に赴任してくる。

 大谷正信は、ハーンに窮状を訴えた。

 すると、ハーンは月々に出す文題に関する資料を収集して提供することを条件に、一定の報酬を与えることを約束したのだ。

 この報酬を学資にあて、大谷正信はハーンのもとで英文学、英文学史を学び、大学を無事に卒業することができた。

 大谷正信は卒業の際に、「先生のおかげで卒業できました」と告げたが、ハーンは「私の力ではない。卒業できたのは、君の資料収集の努力の賜物だ」と応えたという(日野雅之『松江の俳人・大谷繞石 子規・漱石・ハーン・犀星をめぐって』)。