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 前回稿でも触れたように、久しぶりに「第九」を演奏します。

 チャリティですので、東京都・調布市にお近い方には、ぜひお聴きいただけたらと思います。

 といっても、今回は全曲ではなく、抜粋を含む「題名のない音楽祭」形式です。

 つまり、私が1997~99年にかけて責任を持っていたテレビ朝日系列「題名のない音楽会」と同様、レクチャーコンサート形式で全曲からの抜粋と、第四楽章を通して演奏します。

 全曲は来年に演奏する話が出てきつつあります。

 さて、私は「題名のない音楽会」出身ですが、ライバル番組だった「オーケストラがやって来た」の名物企画、子供のための「一分間指揮者コーナー」なども行います。

 ご興味のある方はぜひお問い合わせください。

 前回も記したように、今回の「調布の第九」演奏では、合唱指揮者さんを置かず、私自身でアマチュア合唱の皆さんの指導もご一緒しています。

 まだ、合唱参加者、特に男声は募集中です。

 これも前回書きましたが、近くに住む薬局のおばあちゃんが、この演奏会に参加することで「新しい生き甲斐ができた」と仰ってくださったと聞いています。

 今回は、その演奏会での私の第九の練習から、ご紹介してみたいと思います。

 15年ほど前に書いた新書「指揮者の仕事術」では取り上げなかった、より踏み込んだ「第九」像、とりわけ、少子高齢化の進む日本で、今日的な問題を考えるヒントになるような部分をお話ししてみましょう。

 例えば、「第九」と「太宰治」の間には、ほとんど「兄弟」のような関係があります。

 しかし、日本語では、こんな基本的なことにすら、触れられた例を目にしたことがありません。

 意味も分からず「歓喜の歌だ~」と、「フロイデ、シェーネル、ゲッテルフンケン」*1などカタカナで歌う「カラオケ第九」ビジネスモデルの時代はそろそろ卒業して、もっと深く、作品の奥行きを味わうべき時期に日本も入りつつあると思うのです。

*1=編集部注:Freude, schöner Götterfunken