重要文化財 菱田春草「黒き猫」 明治43年(1910) 永青文庫蔵 ※前期展示
(ライター、構成作家:川岸 徹)
1950(昭和25)年、細川家16代当主・細川護立によって設立された永青文庫。同館の看板作品である菱田春草《黒き猫》をはじめ、近代日本画の名品を紹介する展覧会「永青文庫 近代日本画の粋―あの猫が帰って来る!」が開幕した。
近代日本画史を代表する猫は?
墨のぼかしによって表現された、思わず触れてみたくなるような柔らかな毛並み。「猫が描かれた日本画」と聞いて、永青文庫所蔵の菱田春草《黒き猫》を思い浮かべる人は多いのではないか。2014年に東京国立近代美術館で開催された菱田春草展では「近代日本画でもっとも有名な猫」と紹介されていた。対抗馬、いや“対抗猫”がいるとすれば、山種美術館所蔵の竹内栖鳳《班猫》あたりだろうか。
そんな菱田春草《黒き猫》がついに帰って来た。菱田春草が《黒き猫》を描いたのは、亡くなる前年の1910(明治43)年。制作から100年以上が経過し、作品全体に目立った損傷があるわけではないものの、本紙に少しずつシミが生じ始めたため、永青文庫では大規模なメンテナンスを決断。2021年にクラウドファンディング「文化財修理プロジェクト」を立ち上げたところ、目標額を上回る寄付が集まり、さらに国、東京都、文京区からの支援も受けられることになった。《黒き猫》の修理は無事に完了し、10月4日に開幕した「永青文庫 近代日本画の粋―あの猫が帰って来る!」で公開されている。
わずか5~6日で描き上げた
この機会に《黒き猫》に秘められたエピソードを紹介したい。《黒き猫》は1910(明治43)年10月に開催された「第四回文部省美術展覧会(文展)」の出品作。だが春草は当初から《黒き猫》の出品を予定していたわけではない。猫の絵ではなく、数名の傘をさした今様美人が行き交う、六曲一双の大作《雨中美人》を出品しようと制作に励んでいた。
だが、着物の色調が思うようにまとまらなかったりしたため、春草は《雨中美人》の制作を断念。文展への参加自体を取りやめようと決断する。とはいえ春草は文展の審査委員を務めていたという事情もあり、そう簡単に不参加を認めてはもらえない。知人から「審査委員が不出品ではおもしろくない」と出品をうながされ、急ピッチで新しい作品の制作に取り組む。そうしてわずか5~6日で描き上げたのが《黒き猫》である。
文展に出品された《黒き猫》は「確かな写生に基づく猫と、金泥をベタ塗りにした装飾性の高い柏の葉の取り合わせが絶妙に調和している」などと高い評価を受けた。《黒き猫》は春草の代表作となり、文展以降は春草の元に黒猫図の依頼が相次いだ。1956(昭和31)年には国の重要文化財に指定されている。
猫は春草のひとつの代名詞になったが、本人は猫が苦手だったらしい。「猫の人に媚びる姿が嫌だ」というようなことを語っている。苦手だったから客観的な目で描写に励めたのか、それとも本当は好きなのに気持ちの裏返しで“嫌い”と言ったのか、真実はわからない。


