「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」展示風景。(左から)世親菩薩立像、弥勒如来坐像、無著菩薩立像 すべて国宝 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212)頃  奈良・興福寺蔵 北円堂安置
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(ライター、構成作家:川岸 徹)

鎌倉時代を代表する仏師・運慶が晩年に手がけた興福寺・北円堂諸仏。国宝7軀を一堂に集めた特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」が東京国立博物館で開幕した。

日本彫刻史を代表する仏師・運慶

 6世紀、百済から仏教が伝来するとともに、日本における仏像制作の歴史が始まった。当初は朝鮮半島の影響を強く受けた仏像が主流だったが、飛鳥時代後期には遣唐使によって中国の様式や技術が伝来。奈良時代には中国の作風に日本独自のアレンジが加えられるようになり、平安時代には平等院鳳凰堂の国宝「阿弥陀如来坐像」で知られる仏師・定朝が活躍する。定朝の優雅で穏やかな様式は平安の貴族たちに愛され、「定朝様」と呼ばれる一大流派が形成された。

 その後、定朝様の流派は京都の「院派」「円派」、奈良・興福寺を拠点とする「慶派」にわかれる。貴族との結びつきが深い京都の仏師に比べると、奈良の慶派は劣勢。慶派の仏師たちは主に仏像の修理といった“地味な仕事”を請け負っていた。

 だが、そうした経験は慶派にとって大きな財産となる。京の院派・円派が貴族の好みに合わせて似たような像ばかりをつくっていた頃、慶派の仏師たちは仏像の修理を通して、定朝以前につくられた天平時代の仏像がもつ写実的で力強い作風に触れ、研究することができた。そして、その慶派から“天才”の名をほしいままにするひとりの仏師が登場する。今なお日本を代表する仏師として語り継がれる運慶だ。

 運慶は世の中にあふれていた優美な仏像ではなく、肉感的で躍動感のある仏像を制作。現在も各地に運慶作と伝わる仏像が残されているが、真作と認められている作品は多くはない。資料や銘記などから運慶作と確実視されているものでは、奈良・円成寺「大日如来坐像(国宝)」、奈良・東大寺南大門「金剛力士立像(国宝)」、そして奈良・興福寺「北円堂諸仏(国宝)」が知られている。