そうこうするうちに、今度はその反論を真剣に受け取って、「君ががんばっていることは、おれは知っているから、がんばってとはいわないけど……」などと訳知り顔にいうお調子者が出てきたりしたのである。
あほくさ。
「楽しむ」という意識はどこから来た?
「楽しもう」や「楽しめ」という意識は、もともとアメリカから入ってきた考えだと思われる(実際、千葉すずがアメリカ留学をしたとき、アメリカ人コーチから「泳がされるのはだめ、自分で楽しまないと」といわれたことがきっかけ)。
かれらはなにかというと、二言目には「enjoy」「have fun」(「楽しんで」)と口にするようである。あるいは「楽しんでる?」とか。
かれらが求める楽しいことは、ジワッとしたオキシトシン的愉悦ではない。身体的物理的な快楽、エンドルフィン的享楽である。
アメリカ人は、楽しいことをいろいろ作り出してきた。
ディズニーランド、遊園地、手品、トランプ遊び、奇術、ゲーム、チェス、パーティ、ダンス、ハロウィン、映画やテレビの娯楽番組などなど(なかにはアメリカ発ではないのもあるだろうが、そこはご勘弁)。
さまざまな音楽コンサートやフェスやイベントもそうだろう。野球のホームラン競争やバスケットボールのダンク合戦もそうだ。
ようするにアミューズメントとエンターテインメントである。前者は娯楽、おもしろさのことであり、後者はそれを提供するための活動である。
果ては、ラスベガスという娯楽都市まで作り出した。
かれらは、遊ぶために生きているようなのだ(日本人もそうなってきた)。
ところで、織田裕二に「もっと楽しんで」といわれた110mハードルの村竹ラシッドは(直接いわれたわけではないが)、選手紹介のときには、漫画の主人公のポーズを真似たりして、大いに楽しんでいた(去年のパリ五輪のときからやっていた。それを見て、わたしも楽しんだ)。
しかしメダルを確実視されていた決勝で5位に終わったあと、村竹は「なにが足りなかったのか?」と悔し涙を流した。
やはり、「負け」ては「楽しくない」のだ。
負けても「楽しめた」という者は、「楽しまなければ」という強迫観念にとらわれている。
アメリカ人のコーチは、試合に勝つための秘訣は、まず練習中から「楽しむこと」といいたかったのではないか。