さらに調子に乗って、こうもいう。
老年になっても、性欲があることは「恥ずかしいこと」ではない。自慰をすることは「素晴らしいこと」だ。むしろ「恥ずかしがるより、楽しみましょう(略)楽しめるうちに楽しんでおかなければ、損だと思います」。
やりたい者はやればいいが、それを「素晴らしい」と称賛することはない。それに「楽しんでおかなければ、損だ」というのは、いったいどういう了見か。
高齢者は脳梗塞や認知症など、「突然寝たきりになるリスクが飛躍的に高まる年代」である。「だったら、いま、まだ元気なうちに、楽しんでおきましょうよ。そのほうが免疫機能も上がり、健康にもいいですよ、というのが私の提案です」
和田秀樹は、なにがあっても「楽しい」と思ったもん勝ち、楽しまなきゃ「損」だといっている。もはや「楽しむ教」の教祖。
励まし言葉が苦手な中から出てきた「がんばって」
「がんばって」の衰退と、「楽しんで」の流行には、こういうこともあるのではないか。
昔は、日本人の励ましの言葉(あるいは別れ際の言葉)は、「がんばって」一本槍だった。
たいした意味があるわけじゃないのである。
ただ、励ましや別れ際の一言として、習慣的に流通していただけである。
日本語は励まし言葉や別れ言葉が苦手なのだ。
「じゃまた」とか「ほんじゃあ」でいいのだが、これだと日本人としてはそっけなさすぎて、物足りない気がするのでる。
無言はもっとだめだ。
そこでなにか一言ないか、というときに「がんばって」が出てきた。
ほんとうに「がんばって」という意味が込められる場合もあるが、たいていは「じゃあ」の代わりなのである。
ところが、この言葉を真に受けすぎて、「がんばれというな」と主張する人たちが現れたのである(とくに闘病中の人や、スポーツ選手)。
「こんなにがんばっているのに、これ以上、どうがんばれというの!」というのである。いわれたものは、まさかの反論に目が点。
いやいや、そんな意味じゃないんだけど。
この言葉は、ただ聞き流してもらうだけの言葉にすぎないのだから、と、いい訳したいのだが、できない。
これを境に「がんばって」は劣勢になったのである。