ゲームに勝つだけでは意味がない

 以上が資本主義という「ゲーム」を勝ち抜くためのパターン分析なのですが、ここまで読んで何か物足りないと思った人も多いのではないでしょうか。

 なぜなら、これではゴーギャンが絵画のタイトルとして提示した、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という、人間の根源的な問いに対して何も答えていないからです。

 言い方を変えれば、マズローの欲求階層説の下の方にある生存欲求や身体的な快楽という意味での「幸せ」を手に入れることができても、それらを超えた自己実現の欲求や、ましては自己超越の欲求という「幸せ」は手に入らないからです。

 つまり、私たちは資本主義のゲームに勝つだけでは意味がなく、何のために勝つのかに答えなければ、「善く生きる」ことは実現できないのです。しかも、ゲームに勝つことだけが目標になり、手段(how)と目的(why)が逆転してしまえば、私たちは果てしない競争の繰り返しという無間地獄に落ちてしまいます。

 ピーター・ドラッカーは『現代の経営』の中で、「利益は、企業や事業の目的ではなく『条件』なのである。また利益は、事業における意思決定の理由や原因や根拠ではなく『妥当性の尺度』なのである」と言っています。

 しかしながら、株式市場では企業が持続可能であるための「妥当な利益」よりも、「最大の利益」が求められます。特に、短期の利益還元を求めるアクティビストからは、それが経営者の義務であると責められます。

 このように利益を限界まで絞り出すようなことを続けていれば、どこかで無理がきます。本来は、こうした極端な利益追求ではない、企業の持続可能性を担保する利益追求のあり方──哲学的な言い方をすれば「中庸」があるはずです。