進むべき道を若い頃から見極めることの難しさ
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、また孔子は『論語』の中で、「中庸」ということを言っています。これは「過剰」と「不足」という両極端の中間点ということではなく、その間の「適切な場所」という意味です。例えば、「無謀」と「臆病」の中庸──そのどちらでもない適切なあり方が「勇気」であるように。
とは言え、資本主義のゲームに、自分を見失ってまで勝つということと、戦わずして負けるということの間の、どこに中庸があるかは簡単には分かりません。
「自分とは何か?」「自分は本当は何がしたいのか?」「自分はどこに向かうのか?」──若い頃から特別なアスピレーションを持った起業家でもない限り、普通の人にとって、こうしたことは人生経験を重ねながら時間をかけて学んでいくべきことだからです。ですから、自分のあるべき立ち位置や進むべき道を、若い頃からはっきりと見極めるというのは、かなり難易度が高いと思います。
でも、そのように難しいことだと分かった上で、若い方々だけでなく、私のような老齢の方々にも、「より善い生」を模索し続けてもらいたいと思います。
人生という山は、下る方が難しい
多摩大学の寺島実郎学長は、『何のために働くのか 自分を創る生き方』という著書の中で、若者たちに向けて、「本人の責任を問われるべきでないことで苦しむ人達に温かい眼を向け、不条理な世の中の仕組みや制度を変える気迫」を持って欲しいと呼びかけています。
このように、資本主義というゲームの勝ち組になることを目指すだけでなく、社会の中で不条理な立場に追いやられている人たちへの温かい眼差しを忘れることなく、マズローの欲求段階を一つずつ登っていってもらいたいと思います。
登山も人生も、「登る」よりも「下る」の方が、圧倒的に難しい(写真:kurono/イメージマート)
ただ勝ち組になるだけでは、心理学者の河合隼雄が言っている『中年危機』を乗り切り、人生の下り坂をうまく下っていくことはできません。
登山での遭難は圧倒的に下山の時に多く起きています。私もこの歳になってやっと分かってきましたが、登山と同じで、人生という山は登るのも難しいですが、下るのはもっと難しいのです。