斉昭は再三にわたる献上要請を出しますが、井伊は応じません。ついには斉昭が自ら江戸城へ出向いて懇願したものの「ダメダメ、何言ってんの(笑)」とあっさり断られてしまいます。
この井伊の不遜な態度に、斉昭の家来だった水戸藩士たちは激怒しました。
後世に語り継がれる「桜田門外の変」は、そんな主君に大恥をかかせた井伊に対して水戸藩士たちが行なった復讐劇である、とも囁かれているのです。
実際に水戸の庶民たちは、この事件を「すき焼き討ち入り」とか「御牛騒動」と呼んだと言われています。
さらに、事件以降、近江牛は「大老の首が飛ぶほどうまい牛」と噂されたりもしていたようです。
江戸時代後期の仙台藩士、玉蟲左太夫が記した『幕末確定史料大成桜田騒動記・官武通紀』には、こんな句が詠まれています。
大老が 牛の代わりに 首切られ
この説の真偽はいまだに不明ですが、食べ物の恨みは恐ろしいことを改めてひしひしと感じます。
ぜひ、 「御牛騒動」とネットで検索してみて、ご自身の目でその真偽を探ってみてください。
ちなみに、因縁の当事者である水戸市と彦根市は、現在では仲よく親善都市になっています。
ついに……西洋化の波に乗り、明治政府によって肉食が解禁!
ここまでお読みいただいたらわかるように、日本人は飛鳥時代以降、肉をまったく食べていなかったのかと言われれば、決してそんなことはありません。
平安時代の神道資料である『古語拾遺』には、今でいう家畜がいたことがはっきりと記されています。
また、織田信長や豊臣秀吉が、漂流してきた外国船の乗組員に多くの豚や鶏を与えたという話も残されており、このことから日本の家畜が、時代を経るごとに着実に増えていた様子がわかります。
江戸時代に入っても、相変わらず殺生は禁じられていましたが、一部の庶民の間では鹿肉を「もみじ」、猪肉を「ぼたん」という隠語で呼び、獣肉を盛んに食べていたようで、動物を食材にした料理本が発行されていたほどです。
さて、そんな「隠れ肉食時代」に転機が訪れたのは、幕末の1859年。
横浜港が外国人に開かれたことで、日本社会は一気に西洋化の波に乗りました。
神戸の海岸通りには、と畜場や肉屋が立ち並ぶようになり、それまでタブーとされてきた牛肉を日本人も積極的に食べるようになったのです。
これが、現代へと続く、日本の本格的な牛肉文化の幕開けです。