日米修好通商条約 外務省外交史料館蔵 ワールドイメージング, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
(町田 明広:歴史学者)
将軍継嗣問題の展開
安政5年(1858)6月1日、幕府は御三家以下の溜詰諸侯に将軍継嗣決定(具体名なし)を告げ、翌2日に朝廷に奏聞し、勅裁をもって18日に発表の段取りとした。一方で、南紀派の策動によって、一橋派を攪乱するために、継嗣は一橋慶喜に決定したとの風聞があった(6/1徳川慶勝書簡、松平春嶽宛など)。
なお、朝廷からの返信は直ぐにあったものの(日付未詳)、老中堀田正睦は、あえて大老井伊直弼には告げず、一橋派のための時間稼ぎを図った。しかし、この間の堀田は、将軍継嗣問題からは距離を置き、その帰趨を鮮明にしてこなかった。
にもかかわらず、岩瀬忠震と条約勅許問題で苦楽をともにしたためか、ここに至り、一橋派に完全に与したのだ。堀田は、将軍継嗣を慶喜とする方が、朝廷から条約勅許を得やすいと考えたかも知れない。いずれにしろ、堀田の一橋派への参画は、岩瀬の影響が最も大きかったことは間違いなかろう。



