岩瀬忠震の墓碑がある白鬚神社 写真/フォトライブラリー
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(町田 明広:歴史学者)

水野忠徳の岩瀬忠震に関する談話

 安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が締結された。この条約の交渉に関わり、調印したのは岩瀬忠震であった。岩瀬は大老井伊直弼の調印引き延ばしの指示に従わず、調印を強行した。その岩瀬の覚悟とは、どのようなものであったのか。

 最初に、勘定奉行や外国奉行を歴任した水野忠徳の岩瀬に関する談話を紹介したい。

水野忠徳

 京都公卿等には、宇内の大勢を弁別して国家の利害を悟り、条約勅許に同意を表するもの一人も無し。是を知りながら、徒らに勅許勅許と勅許を恃み、その為に時機を失い、英仏全権等が新捷の余威に乗じて我国に来るを待たんは、実に無知の至なり。かかる蟠根錯節(ばんこんさくせつ)の場合に遭遇しては、快刀直截の外は有るべからず。国内不測の大患は、我もとより覚悟する所なり。我は唯々国外より不測の大患をこうむらん事を恐るるなり(『幕末政治家』)

 これによると、朝廷の公卿らは世界の趨勢をわきまえて、国家の利害を理解し、通商条約の勅許に賛同する者は1人も居なかった。これを知りながら、幕府はいたずらに勅許を再三求め続けたため、時機を逸してしまった。英仏の全権使節がアロー戦争(第2次アヘン戦争)の勢いに乗じて、迅速に我が国に来ることを待つことは、実に無知の極みである。

 このように、物事が複雑に入り組んでいて、解決が難しい状況に遭遇した時は、迅速果断に解決するほかない。国内の不測の災難は覚悟しているが、外国に引き起こされる不測の災難を恐れている、と岩瀬は語っている。早期の条約締結を目指す、岩瀬の志向がうかがえる。