左から岩瀬忠震、橋本左内
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(町田 明広:歴史学者)

岩瀬忠震と橋本左内の連携による「一大奇計」

 安政5年(1858)3月25日、岩瀬忠震は京を発して、4月4日に江戸に到着した。岩瀬の早期下向に対し、京都に同行していた勘定奉行川路聖謨は、「二十五日、曇。岩瀬肥後守出立なり。同人は、今般の一条、よく弁え居り候所、帰府ゆえ心細し」と日記に記した。

 そもそも、岩瀬の帰府は老中堀田正睦の決断であり、幕府は通商条約の勅許獲得を事実上あきらめたことに他ならなかった。とは言え、岩瀬の不在は、残された川路らにとって、痛恨の出来事であったのだ。

 4月7日、岩瀬は早速ハリスと会談し、条約調印の期日は堀田帰府後とし、さらに協議することを伝達した。なお、5月16日、岩瀬は琉球人参府用掛を、28日に外国貿易取調掛を拝命している。幕府にとって、岩瀬は外交問題でなくてはならぬ存在になっていた。

 4月14日、岩瀬は4月11日に江戸に戻っていた橋本左内と会談した。そこで両者は、大方針として、「慶喜継嗣・慶永(春嶽)宰補」を確認した。つまり、一橋慶喜を14代将軍とし、松平春嶽を大老に就ける計画であった。この方針は、越前藩内では同士間の共有認識となっており、村田氏寿書簡(左内宛、4月12日)では、「一大奇計」と呼称されていた。

 4月19日、岩瀬は左内に堀田が明日帰府した上で、慶喜の継嗣決定を公表すると伝達した。翌20日、堀田は江戸に到着し、早速22日には13代将軍徳川家定に対して、春嶽を大老に推挙したのだ。