サンリオ創業者・辻信太郎
もう一人、八木信之介のモデルと噂されるのが、サンリオ創業者・辻信太郎である。
辻信太郎は昭和2年(1927)に、山梨県甲府市で「三省楼」という大きな料亭を営む家の長男として産まれた。柳瀬嵩より8歳年下である。
学生時代、詩人の西条八十(さいじょうやそ)主宰の同人誌『蝋人形』を愛読する文学青年だったという。
昭和20年(1945)、辻信太郎は桐生工業専門学校化学工業科(現在の群馬大学理工学部)に入学する。本当は文科に進みたかったが、太平洋戦争末期であり、徴兵を避けるために理系を選んだという。
終戦後は郷里に帰り、山梨県庁に就職したが、昭和35年(1960)、県の外郭団体だった山梨シルクセンターを県から切り離して株式会社とし、社長に就任した。
山梨シルクセンターが、「株式会社サンリオ」に社名変更するのは、昭和48年(1973)のことである。
この辻信太郎に依頼され、柳瀬嵩は麦わら帽子の形をしたキャンディの容器をデザインしている。
当時、柳瀬嵩は書きためていた詩を、詩集として自費出版しようと考えていた。
その原稿を見せると、辻信太郎は「詩集はうちで出版しましょう」と、出版社でもないのに持ちかけた。
柳瀬嵩によれば、この頃の山梨シルクセンターは、社員も6人くらいの小さな会社だった。利益になるものは何でもやり、この頃はお菓子の箱を作っていたが、他にもサンダル、パラソル、財布など、ほとんど統一感のない種類の品を扱っていたという(やなせたかし『アンパンマンの遺書』)。
辻信太郎は、「詩集は売れませんよ」という柳瀬嵩の言葉を気にもせず、社員の反対を押し切って出版部を作った。
そして、昭和41年(1966)9月、柳瀬嵩の詩集『愛する歌』が刊行された。
予想に反して詩集は売れ、第5集まで刊行された。
柳瀬嵩によれば、総計10万部は売れたという(やなせたかし『明日をひらく言葉』)。
この先も柳瀬嵩と辻信太郎の関係は、続いていく。
名前に「信」が付くこと、NHK公式サイトの『あんぱん』の登場人物紹介に、「戦後、嵩と思わぬ再会を果たし、朝田のぶと嵩の人生に大きな影響を与えるようになる」とあることなどから、辻信太郎が八木信之介のモデルと予想する声も多い。
今後、八木信之介はどうのように、主人公たちに関わっていくのだろうか。
