古代の狩猟採集生活では内集団と外集団の区別が重要だった(写真:R.M. Nunes/shutterstock)
進化生物学者・長谷川眞理子氏(日本芸術文化振興会理事長)は「人間は基本的に性善である」と語るが、人類の歴史は争いの繰り返しでもある。なぜ「善い人」であるはずの私たちは、戦争や対立をやめられないのか。
その答えは、ヒトがもつ進化的な背景と集団間及び個人間の利害関係にあるという。ヒトの出発点である赤ちゃんの本性、多様性、そして「善き人」でありながらも争いを生む人類の二面性について、『美しく残酷なヒトの本性』(PHP研究所)を上梓した長谷川氏に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)
──なぜ「ヒトは性善説に基づく存在である」と考えるのですか。
長谷川眞理子氏(以下、長谷川):人間の赤ちゃんは極めて無力で、大人の助けなしには生きられません。生存のためには、周囲の人からの世話を引き出す必要があります。
ところが、生まれたての赤ちゃんには、誰が信頼できる相手かを見極める手段がありません。だからこそ、周囲のすべての人を「善い人」とみなす必要がある。そのような前提がなければ、生存はおぼつきません。この構造こそが、人間が本来的に性善であると考える理由です。
──「性善」でありながら、なぜヒトは争ってしまうのでしょうか。
長谷川:人類は長い間、小さな集団で狩猟採集生活をしてきました。そこで重要だったのが「内集団」と「外集団」の区別です。
ヒトはものごとをカテゴリー化して見るので、自分が属する集団とそれ以外をカテゴリーとして区別し、「あの人たちは自分たちとは違う」と認識します。こうした境界認識があるからこそ、集団としてのまとまりが保てるという面もあります。
もちろん、内集団の中だからと言って全員が仲良しというわけではありません。外集団だからと言って、必ずしも敵対関係ではありません。利害の対立は、内集団の中でも、外集団との間でも生じます。
ヒトは誰しも、ある程度の攻撃性を備えていますが、その使い方は後天的に学ぶものです。「いつ、誰に、どう発揮するか」は、成長の中で身につけていくのです。
──つまり、「性善」で始まっても、必ずしも「善人」であり続けるわけではない。
長谷川:その通りです。すべての人が「善い人」として生きられるわけではありません。むしろ、社会の中で生き抜くためには、外集団との関係だけでなく、内集団における利害や力関係も理解していく必要があります。
それを見誤れば、他者に搾取され続ける人生を送ることにもなりかねません。ヒトは賢く、したたかに、自らの置かれた状況を見極めながら生きていかなければなりません。
──書籍の中で印象的だったのは、「火を調理に使うことで人類は発展した」という説を提唱したのが女性研究者だったという話でした。
