7月5日、熱田神宮で奉納土俵入りを行う新横綱大の里。左は太刀持ち高安(写真:共同通信社)
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7月13日、大相撲名古屋場所が初日を迎える。注目は新横綱の大の里だろう。令和初となる日本出身横綱としての活躍も期待される。横綱土俵入りは「大相撲の華」とされ、大の里についても昇進決定後にたびたび話題となったが、事実とは異なる情報も多い。解説していこう。

(長山 聡:大相撲ジャーナル元編集長)

江戸時代に誕生した横綱制度

 日本人なら誰もが知っている「横綱」。大相撲興行においては最大の目玉といっても過言ではなく、大の里の綱取りがかかった夏場所も、大変な盛り上がりを見せた。結果、8年ぶりに日本出身横綱が誕生したことで、横綱に対する関心も近年になく高まっている。

 大の里の横綱昇進後は、新聞、雑誌、そしてテレビのワイドショーなどで横綱を取り上げる機会が多かったが、相変わらず一般的に流布している俗説が数多くみられた。その一つが「横綱土俵入り」についてだ。

 歴史から振り返ってみよう。

 現在に繋がる横綱制度は、相撲の家元・吉田司家の19世吉田追風が、江戸時代の谷風、小野川に免許を与えたことを嚆矢とする。吉田司家は相撲の故実・礼式に精通していると認識され、当主は代々「吉田追風」を名乗っていた。

実質初代横綱の谷風

 江戸時代はどんな芸事も関西で成熟し、やがて新興地である江戸に移っていった。相撲も各地に職業集団が存在し、次第に組織化されていったが、その中心は大阪や京都だった。それが天明(1781~1789年)頃から大力士谷風を中心に江戸勧進相撲が盛り上がりを見せるようになり、京大阪を凌駕した。

 さらに寛政3(1791)年には、将軍・家斉による史上初ともいえる大規模な上覧相撲が企画された。そこで19世吉田追風が派手なデモンストレーションを画策した。当時は相撲の家元を名乗る者も多く、ライバルをしのぎ、吉田家を総司家とする絶好のチャンスと捉えたからだ。

 この横綱には様々な説があるが、19世吉田司家が家伝や故実を都合よく解釈し、新しい権威を創出したと考えるのが妥当だろう。しかも恒久的な制度とまでは考えておらず、谷風・小野川限定として構想された可能性が高い。現に、次に横綱免許を受けた阿武松まで、39年の月日を要している。