私たちの病や災難の身代わりに、太陽が欠けていると考えられていた

 日食は天文学が発達していなかったその昔、凶事の前兆として人びとから畏れられていた。『古事記』や『日本書紀』には、太陽神天照大神にまつわる物語が記されている。

 暴れん坊の須佐之男命が理不尽な暴挙をはたらいた時、姉の天照大神は嘆き悲しみ、怒り、岩戸に引きこもってしまった。太陽神が隠れたことで、世界は暗闇に包まれた。神々は怯え、さまざまな災禍が押し寄せてきた。神々は知恵を結集して、岩戸から天照大神を誘き出すことに成功すると、たちまちあたりは陽の光に満たされた。

 この「天照大神の岩戸隠れ」の物語は、神秘的な皆既日食の現象を神話として仕立てたものであろう。

天岩戸神話の天照大御神(春斎年昌画、明治22年、オーストリア応用美術博物館蔵)(出典:wikimedia)

 日食の記録を遡れば、最古のものが『日本書紀』に残っている。

「推古天皇36年3月戊申日、蝕え尽きたること有り」

「蝕え尽きたり」とは「皆既日食となった」という意味である。この時の日食は皆既に近い93パーセントの食分だったとされている。

 推古天皇は奇しくも日食の4日前に病に伏し、日食の5日後に崩御した。

『古事記』や『日本書紀』の記述にもあるように、日食は人知では推し量ることのできない奇妙な現象であった。

 われわれのいのちの源である太陽が突如として欠けていくのだから、庶民の多くが、日食にさまざまな凶兆を重ねたとしても無理はない。

「太陽が欠けるのは、お天道さまがわれわれに降りかかる病や災難の身代わりになってくれているから」

 そんな日食を擬人化した民俗信仰も生まれた。

 太陽が凶事の犠牲になってくれている。そんな理屈が成立したからこそ、日食は「供養の範疇」に入った。

 日食供養には、太陽を悼み、太陽の恩恵に感謝する意味が込められているのだ。