源頼朝の死のきっかけは「橋供養」への参加だった?

 道供養は江戸時代頃に出現したと思われるが、橋供養の歴史はさらに古い。

 鎌倉時代にはすでに橋の供養祭が実施されていたようだ。

関東に多く見られる石橋供養塔(撮影:著者)

 鎌倉時代後期の歴史書『鎌倉北条九代記』には、実に興味深いことが書かれている。源頼朝の死と橋供養との関連性である。

「右大将頼朝卿薨去」と題し、このように書かれている。

「同九年十二月稲毛重成亡妻の追福のため相模川の橋供養をいとなむ右大将頼朝卿結縁のために行向ひ御帰りの道にして八的原にかかりて義経行家が怨霊を見給ふ稲村崎にして安徳天皇の御霊現形し給ふ是を見奉りて忽たちまちに身心昏倒し馬上より落給ふ」  

 つまりこうだ。

 1198(建久9)年12月27日、源頼朝は御家人・稲毛重成の妻・元子の供養のためにつくられた相模川の橋の供養に出席した。

 供養祭が終わり、鎌倉に戻る途中の八的ヶ原に差し掛かった時のこと。源義経と源行家の怨霊が現れた。

 そこはやり過ごした頼朝であったが、稲村ヶ崎あたりで今度は安徳天皇の怨霊が出てきて頼朝をじっと見ている。今度ばかりは頼朝は動揺し、失神、落馬してしまった――。

 この時の事故が元で、病に伏した頼朝は一向に快復せず、翌年に亡くなってしまったという。享年53。

 真偽のほどはともかく、当時、橋供養に源頼朝が立ち会っていたという記述は刮目に値するものであろう。

 一般的に橋供養は橋の渡り初ぞめの際、供養塔を立てて法要を施したが、なかには橋の取り壊しの際の慰霊祭として行われた例もあったようだ。

 また、橋を長持ちさせるためや、ムラとムラとを結ぶ橋を結界とみなし悪霊を防ぐため、水難を未然に防止する水神として、あるいは通行人の安全を祈願するため――など、さまざまな目的・役割があったとされている。