交通安全を祈って建てられた、鎌倉街道の墓
道供養塔に渋谷区教育委員会の説明書きが添えてあったので紹介しよう。
「(この道供養碑によって)江戸時代の道供養信仰をある程度知ることができます。
道祖神、地蔵尊などの交通安全、悪魔退散の呪術的信仰とはちがい、これは橋供養と同じように、道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈ろうとする珍しい供養碑です。
中野通りの先は駒場道(鎌倉道)の一部で、この道供養碑はもとはそれに面してたてられていて、駒場道の供養碑であったことがわかります。
なお、中野通りに甲州街道が交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞行事を行なう場所、といういい伝えもあるようです」
鎌倉道とは、鎌倉時代に幕府があった鎌倉と各地を結んだ街道である。
鎌倉街道は主に上道、中道、下道と呼ばれる三つの幹線道路が関東平野に伸びていた。牛窪地蔵尊の鎌倉街道は中道の一部と考えられる。
この道供養塔はいわば、「鎌倉街道の墓」ともいえるものだ。
若者の街・渋谷にひっそりと佇む供養塔
同じ渋谷区では、道玄坂に道供養碑が存在する。
道玄坂道供養碑(撮影:著者)
場所は、渋谷駅と隣接する渋谷マークシティの裏側である。
近隣にはファッションビルや飲食店が建ち並び、日頃、大勢の若者が闊歩する場所だが、道供養碑の存在に気を留める者はまずいない。
道供養碑は、「母遠うて瞳したしき西の山 相模か知らず雨雲かかる」との与謝野晶子の歌碑や、道玄坂の由来を書いた石碑とともに並んでいるが、歌碑とは関係がないと思われる。
道玄坂の由来は、江戸時代に大和田太郎道玄なる盗賊がこのあたりで狼藉を働いていたとする説や、道玄庵という寺があったことに由来する説がある。
道玄坂は今でこそ、渋谷駅から国道246号へと抜ける570メートルほどのゆるやかな坂道だが、江戸時代中期頃までは現在の井の頭線・神泉駅近くまで延びる街道であった。
神奈川から江戸の中心街への物流を担った主要道路のひとつであったため、きちんと供養する対象になったと考えられる。