2.尖閣諸島の領有権問題
(1)米国が統治・返還した沖縄の範囲
本項は、内閣官房ホームページ「米国の施政下の尖閣諸島」を参考にしている。
1952年2月29日、琉球列島米国民政府(USCAR)布告第68号(琉球政府章典)において、施政下に置く琉球列島の範囲が緯度経度(北緯28度・東経124度40分、北緯24度・東経122度、北緯24度・東経133度、北緯27度・東経131度50分、北緯27度・東経18度18分及び北緯28度 128度18分)で明示された。
これを図示したのが下図(図1)の②の部分である。
その範囲の中には、尖閣諸島が含まれており、尖閣諸島は一貫して南西諸島の一部に位置付けられている。
また、1951年9月に署名され、1952年4月に発効した「サンフランシスコ平和条約」において尖閣諸島は日本が放棄した領土には含まれず、日本の南西諸島の一部として米国の施政下に置かれた。
当時、中国はそれらの措置に一切異議を唱えておらず、逆に中国共産党の機関紙や中国の地図の中で、日本の領土として扱われてきた。
また、1972年に発効した「沖縄返還協定」で規定された返還範囲も図1の範囲と全く同じである。
図1:USCARの布告等で示された琉球列島の範囲(出典:内閣官房)

(2)尖閣諸島の射爆撃演習場
本項「ア」および「イ」号は、内閣官房ホームページ「尖閣諸島 研究・解説サイト」を参考にしている。
ア.射爆撃演習場の指定
尖閣諸島には、米軍がその管理下に置く射爆撃演習場が2か所存在する。久場島の「黄尾嶼射爆撃場(Kobi Sho Range)」、大正島の「赤尾嶼射爆撃場(Sekibi Sho Range)」である。
ちなみに、尖閣諸島は、沖縄県石垣市に所在する魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬などから成る島々の総称である。
射爆撃演習場に指定された場所は、漁業者による出漁が禁止された。
2017年度までの資料調査(注1)では、遅くとも1948年には久場島が射爆演習場として指定され、その旨が米国軍政府から下部の行政機構にあたる沖縄民政府に同年4月9日付で通達されていたことを示す資料が確認されている。
2018年度の資料調査では、米国軍政府が沖縄民政府に対して出漁禁止区域を告知したこと、また、それを沖縄民政府が漁業関係者に通達していたことを示す同年4月22日付の資料が確認されている。
戦後、沖縄を統治することになった米国(軍)が注目したのは、尖閣諸島の軍事訓練場としての有用性であった。
なお、1978年6月以降、久場島、大正島とも射爆撃場の使用についての通告は行われていない。久場島、大正島の位置は下図(図2)のとおりである。
図2:尖閣諸島の地図(出典:外務省)

(注1)資料調査とは、政府の委託事業の下で有識者の助言を得て、調査・収集および作成したものである。しかし、その内容は政府の見解を表すものではないとの但し書きが付いている。
イ.米軍と久場島所有者との軍用地契約
米軍の射爆撃演習場として指定された久場島は、古賀善次氏が所有する私有地であった。
米軍は、琉球政府を介し同島を軍用地として借り上げる賃借契約を古賀善次氏と締結した。
資料調査では、この契約に関する1958年から1970 年までの資料を確認した。
米国(米軍)が久場島、大正島を施政下に置いていたこと、戦前からの制度や財産を戦後も認めていたことが確認できる。
ウ.射爆撃場に関する国会答弁
この2つの島は、1972年5月15日に沖縄の施政権が米国から日本に返還されると同時に、日米合同委員会合意により日米安全保障条約と日米地位協定に基づく施設提供のスキームに切り替えられ、継続して米軍が使用するものとされた。
しかし、既述したが1978年6月以降、久場島、大正島とも射爆撃場として使用されていない。
日米地位協定で、米軍に提供された施設で使用の必要がなくなったものは返還されることになっている。
この点を踏まえて、沖縄選出の照屋寛徳衆議院議員は内閣総理大臣宛の「米軍訓練制限水域及び射爆撃場の返還に関する質問主意書(2010年10月1日提出)」で、政府の認識を質した。
政府からの答弁は、以下のようなものであった。
「黄尾嶼射爆撃場については空対地射爆撃訓練、赤尾嶼射爆撃場については艦対地射撃及び空対地射爆撃訓練を使用目的として使用しているものと認識している」
「なお、米軍は、かかる使用目的により提供水域及び指定水域を使用する場合、米側から防衛省に対し当該水域の使用期間等について事前に通告がある。指定水域及び指定空域の在り方(返還等)については、米軍の必要性等を勘案しつつ、随時、日米合同委員会の枠組みを通じ、米国と協議してきている」
「今後とも、日米合同委員会の枠組みの中で、個々の水域及び空域の実情を踏まえながら適切に対応していく考えである」
すなわち、両射爆撃場に対する当時および現在の政府の認識は、「米側から返還の意向は示されておらず、引き続き米軍による使用に供することが必要な施設および区域である」と認識しているというものである。
エ.筆者コメント
いくら米国(軍)でも、1948年当時、尖閣諸島が台湾または中国の領土であると認識していたならば射爆場を尖閣諸島に設置することはなかったであろう。
すなわち、当時、米国(軍)は、尖閣諸島が日本の領土であると認識していたのであろう。
では、なぜ米国(軍)は1978年6月以降、射爆撃場を使用していないのであろうか。
考えられる理由は、1978年当時の米国および日本の対中融和政策である。
1971年のヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官(当時、その後国務長官)の中国訪問から始まった米中国交回復の動きは、1972年2月のリチャード・ニクソン大統領の訪中による米中共同声明、1979年1月1日のジミー・カーター大統領と鄧小平・中国共産党中央委員会副主席(当時、1978~89年最高指導者)との間の交渉によって、米中国交正常化が合意された。
一方、日本は、1972年9月田中角栄首相が訪中し、周恩来総理との間で日中共同声明を調印し、日中国交正常化が合意された。
その後、平和友好条約交渉が行われ、1978年8月12日、日中平和友好条約が調印された。1978年10月に国会の衆参両院で共に圧倒的多数で批准され、同年10月22日に鄧小平氏が来日した。
さて、筆者の提案であるが、1978年当時と現在の米中関係およ日中関係は大きく異なる。そこで、政府は、米軍に尖閣諸島を射爆撃場として使用させるのである。
できうる限り黄尾嶼射爆撃場および赤尾嶼射爆撃場を日米共同利用施設とし、自衛隊も利用するのである。
そうすれば尖閣諸島が日本固有の領土であることを世界にアピールすることができる。政府には是非知恵を絞ってこれを実現させてもらいたい。