蔦重が売り出した歌麿と写楽

 本展は展覧会タイトルにあるように、蔦屋重三郎を軸とした構成。蔦重は安永(1772-81)から寛政(1789-1801)にかけて、多色摺の錦絵が大きな発展を遂げた時期に活躍した版元。喜多川歌麿を人気絵師へと育て上げ、東洲斎写楽を発掘したことで知られている。

 会場では蔦重が手がけた歌麿、写楽の人気作が次々に現れる。歌麿は女性の顔をクローズアップした“美人大首絵”で名をあげた絵師で、吉原遊女だけでなく、太夫、街娼、貴婦人、茶屋の看板娘、家庭の婦女など、多彩な女性をモデルにした。《当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ》は、浅草随身門脇の水茶屋難波屋おきた、江戸両国薬研米沢町二丁目の煎餅屋高島長兵衛の娘高島おひさ、吉原玉村屋抱えの芸者で富本節の名取であった富本豊雛という、評判の美人3人を描いた作品。艶やかでありながら、三尊像のような気品も感じさせてくれる。

 一方、写楽は大首絵の技法を使った役者絵で注目を集めた。彼は長い間、正体不明の“謎の絵師”と呼ばれてきたが、近年の研究では「写楽の正体は能役者の斎藤十郎兵衛」とする説が有力視されている。蔦重は写楽のデビューにあたって、新人としては異例の「28図を同時に刊行」という“大売出し”を図った。その中には《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》など代表作が含まれている。

「江戸の名プロデューサー 蔦屋重三郎と浮世絵のキセキ」展示風景。東洲斎写楽《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》寛政6年(1794)千葉市美術館蔵

 だが、精力的に売り出しを仕掛けたものの、蔦重の目論見通りに事は進まない。写楽の役者絵は顔の特徴をとらえたリアルな描写が持ち味だが、それが役者ファンには受け入れられなかった。ファンが求めるのはリアルさではなく、美しさとかっこよさ。素敵なお顔を見て、憧れを募らせたいのである。今となっては考えられないが、写楽の作品は思うように売れず、デビューからわずか10か月で風のように消えてしまった。