古墳時代から来ていた渡来人
ところが、当時、敵国に当たる高句麗、それから新羅の渡来人は、実際には古墳時代のかなり早い時期から全国に移り住んできていたんです。まずその渡来人という言葉ですけども、これはまさに渡ってきた人と書くわけでして、もうこれは物理的に諸外国、海の向こうから日本にやってきた人という表記です。
かつては、私ももう60代半ばですけども、昔勉強された方は、渡来人という言葉よりも帰化人という言葉を連想される、あるいは帰化人という名前で学校で習ったという方も大勢いらっしゃると思いますが、帰化というのは、これはお相撲さんでよく日本国籍を取って、親方になるために自らの意思で日本国籍を取る人がいるように、自ら進んでその国の国籍を取ることを帰化というわけですね。
おそらく渡来人の中には帰化した人もいるでしょうけども、そういうことと関係なく、ただ、海の向こうの島国である日本に新天地を求めてやってきた人、たまたまその海の向こうの島が日本、当時の倭国だったという人たち、あるいは、白村江の戦いで日本軍の捕虜になって、特に多くの技術者は日本軍に日本列島に連れ帰られた人も大勢いたかもしれません。いろんな形で日本にやってきた人がいたと思いますので、最近では帰化人と言わずに、帰化人をも含めた概念で渡来人という風に教科書では使っています。今後は、私の話でも渡来人と言っていきたいと思っています。
先ほど、白村江の戦いで敗れた百済の人たちが664年に日本にやってきた、それから、白村江の戦いから5年後の高句麗の滅亡で高句麗の大勢の人たちが日本に逃れてきた、こういうことを言いましたけども、実際にはですね、この7世紀よりも前から、もうすでに5世紀ぐらいの段階から大勢の渡来人が日本列島に移り住んでいました。海の向こうの島ですから、もう簡単に行ってみようっていう気になるわけですよね。
日本からも朝鮮半島に渡っていた
よく渡来人というと、中国、朝鮮半島から日本に来た人のことばかりの話を連想しがちですが、当然、日本から朝鮮や中国に行っていた人も大勢いたわけですね。一方通行ということはありません。こういうことが最近の研究で分かってきています。
例えば、弥生時代以来ですね、水稲耕作、米作りを教わっていた日本ですけども、日本がただでそれを教わっていたとは思いません。その見返りに、日本にしかないいろんな技術を朝鮮半島に提供していたかもしれません。近年注目されているのは塩作りですね。人間が生きていく上で塩というのはとても大事なんですが、朝鮮半島には砂浜の海岸がないわけです。
みんな日本の三陸海岸のようなリアス式の岩場の海岸しかなくて、塩作りはまずこう海水を砂浜に撒いて、そこで塩の結晶を太陽の力でたくさん作り、それを煮詰めていって、塩分の濃い海水から塩を作るという「入浜式塩田」と言うんですが、砂浜が必要なんですね。
ですから、朝鮮半島は様々な文化を日本にもたらしたわけですけど、その見返りとして日本からは塩を送っていたんではないか、最近こういう研究が注目されています。
それから、日本の国石になってる翡翠ですね。これは、日本では新潟県の糸魚川周辺にたくさん打ち上げられていたり、あるいは糸魚川の河原の中にその原石があったりして、どこでも採れる石ではなく、富山県から新潟県の南部辺りに集中して採れる大変綺麗な石ですけど、縄文時代からみんなこれをペンダントとして使っていたわけですが、朝鮮半島でもですね、古墳時代の王族の冠を見ますと、日本の翡翠がたくさんこう渡っていて、装飾に使われているんですね。ですから、朝鮮になかった翡翠が日本からの交換物としてたくさん輸出されていたっていうこともね、これも事実なんですね。
ですから、渡来文化あるいは古代の日本と中国、朝鮮半島の関係は、片側からの矢印だけで考えるのではなくて、必ず相互の矢印、双方からの矢印で考えていかなければならないと、そんな一方通行ってことはないということを、まず皆さんに申し上げておきたいと思っています。