
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より坂上滝守です。
*この連載(『日本後紀』『続日本後紀』所載分)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。
田村麻呂ら武将を輩出した軍事貴族
久々に坂上(さかのうえ)氏の官人である。『日本三代実録』の最後の巻である巻四十の元慶(がんぎょう)五年(八八一)十一月九日癸丑条は、坂上滝守の卒伝を載せている。
従四位下行大和守坂上大宿禰滝守が卒去した。滝守は右京の人で、従四位下鷹養(たかかい)の孫で、正六位上氏勝(うじかつ)の子である。幼くして武芸を好み、特に弓馬を習い、もっとも歩射に優れた。坂上氏の先祖は、世々将軍の種を伝えたが、滝守は幹略で、家風を堕とすことはなかった。
承和(じょうわ)十年、年十九歳で官に就き、左近衛将曹となった。歩射と騎射を兼ね、節会に供奉した。仁寿(にんじゅ)の初年、左近衛将監に転任した。斉衡(さいこう)四年、従五位下を授けられた。天安(てんあん)二年、左馬助に除され、数箇月で伯耆介に遷任され、未だ幾くもなく遷任されて駿河介となった。貞観(じょうがん)二年、山城介となった。貞観四年、右兵衛権佐に拝任され、貞観八年従五位上に加叙され、右近衛少将に遷任された。
貞観十一年十二月、地方官に出て大宰権少弐となった。右近衛少将は元のとおりであった。この年、新羅の海賊が、大宰府の貢綿を略奪した。勅して滝守を遣わし、後陣に備え、大宰府を警固させた。貞観十四年、権少弐を改めて正官の大宰少弐とした。
貞観十六年、左近衛権少将に遷任された。貞観十八年、正五位下に加叙され、翌年、近江介となった。元慶三年、従四位下を授けられ、陸奥守に遷任されたが、赴任しなかった。元慶四年、地方官に出て大和守となった。卒去した時、行年五十七歳。
坂上氏はすでに述べたように、元は大和国高市郡に居住した渡来系の東漢(やまとのあや)氏の枝族である。天武(てんむ)元年(六七二)の壬申の乱には、大海人(おおしあま)王子(後の天武天皇)側の人物として坂上国麻呂(くにまろ)・坂上熊毛(くまげ)・坂上老(おきな)が見える。
橘奈良麻呂(ならまろ)の変や恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮圧した苅田麻呂(かりたまろ)や、「蝦夷征討」の征夷大将軍田村麻呂(たむらまろ)らの武将を出し、子孫には陸奥鎮守府将軍に任じられた者も多いなど、軍事貴族として活躍した。また、田村麻呂の姉妹である又子(またこ)は桓武(かんむ)天皇の宮人、田村麻呂の女の春子(はるこ)も桓武天皇の妃となって高津(たかつ)内親王を産むなど、一時は後宮にも勢力を伸ばした。
その田村麻呂の弟である鷹養の孫が、この滝守である。先祖の遺徳を継いで、「世々将軍の種を伝えた」が、すでにこの時代になると、武官としての高い地位も藤原氏に取って代わられるようになっていた。嫡流である田村麻呂の子孫でさえ、子の広野(ひろの)は従四位下右兵衛督、孫の峯雄(みねお)は従五位下上野介、当道(まさみち)は従五位上陸奥守、曾孫の好蔭(よしかげ)は従四位上右馬頭と、徐々にその地位を低下させている(藤原氏を含む他の氏族でも同様であったが)。
その後は軍事貴族という性格から転換し(戦乱がなくなったから当然であるが)、歌人の是則(これのり)や、明法博士の明基(あきもと)など、文化や法律の世界に活路を求めていった。
滝守は、天長(てんちょう)二年(八二五)に右京で生まれた。母は不明。幼い頃から武芸を好み、弓馬を習得したが、特に歩射に優れた。歩射というのは「ぶしゃ」「かちゆみ」と読んで、騎射(「きしゃ」「うまゆみ」)に対して地面から射る射法である。滝守は武芸の面で坂上氏の伝統を継いでいたことになる。一族の中にそのような雰囲気があったのであろう。