『続日本紀』に書かれた高麗郡、新羅郡

そのぐらいのところが前史なんですけども、『日本書紀』あるいは『日本書紀』に続く奈良時代の記録は『続日本紀』と書きまして、「しょくにほんぎ」と読むんですけれども、そこには先ほどの武蔵野国の高麗郡、新羅郡に関する2つの重要な資料が載っています。
まず1つが霊亀2年(716)5月、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高麗人、1799人をもって武蔵国に移して初めて高麗郡を置くという記録があるんですね。
駿河は静岡県の東部、甲斐は山梨県、相模は神奈川県、上総、下総は房総半島、常陸は茨城県、下野は栃木県ですね。その7国の高句麗の人たち、1799人、非常にリアルな数字ですよね。2000人と言ったり、あるいは1800人と言ってもいいんですが、これをちゃんと1799と書いているのは、これが律令国家の文書主義ですね。非常に正確な記録が社会で尊重されていた時代だということです。
ここに出てこない関東地方の国としては埼玉県と群馬県がありますが、埼玉県は当然、新たに高麗郡が作られた国ですから出てきません。市町村名で言うと日高市には、「曼珠沙華の花が秋になると真っ赤に咲きました」とよくニュースでやる巾着田や、高麗神社という、もうまさにこの高句麗の人を祀った神社もあります。すぐお隣の飯能市にも渡来人の足跡がたくさん残っていますが、この埼玉県の日高市や飯能市一帯がこの高句麗の人たちが集まった場所なんですね。ですから、そこには元々いたかもしれませんし、先ほどの7つの国には武蔵の国は入っていません。
それから、群馬県にはすでに大勢渡来人がいたんですが、なぜ入っていないかというと、実は群馬県にはもう渡来人が住んだ郡が先にできているんですね。これはユネスコの世界記憶遺産になった上野三碑(こうづけさんぴ)という山上碑(やまのうえひ)、多胡碑(たごひ)、金井沢碑(かないざわひ)という、3つの石碑が残っているんですけど、この多胡碑がある多胡郡はおそらく渡来人の郡だと言われています。おそらくここは高句麗、新羅あるいは百済の渡来人が混在していたんで一国の名前を名乗らなかった、多胡という名前の郡だったという風に考えられています。
多胡というのは渡来人が多く住んだ地名として全国に残っていますが、皆さん思い当たりますか。静岡県の田子浦とかですね。あるいは千葉県に多古町っていうのがあったりするんですけども、この多胡っていうのは渡来人が多く住んだ地名として今でも全国に残っています。ですから、群馬県の渡来人は武蔵にやってこなかったんですね。
いずれにしても、716年に今の日高市や飯能市あたりに高句麗の渡来人が1799人集まってできた、高麗郡という郡ができたという記録が残っているわけです。
もう1つ、今度は天平宝字2年、758年の8月癸亥条の続日本紀の記事ですけども、先ほどの高麗郡ができてからちょうど42年後になるんですが、次のような記録が載っています。
「帰化の新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移す。ここにおいて初めて新羅郡を置く」と。今度は人数が少ないんですね。お坊さんが32人、尼さんが2人で、これで34人。さらに、一般の男性が19人と女性が21人で合わせて40人ですから、総勢74人の人がこの武蔵国の新羅郡を作ったという、そういう記録なんですね。
これは今のどこに当たるかと言いますと、埼玉県の新座市、志木市、朝霞市、和光市の4市あたりがこの新羅郡の場所だと言われています。関連する地名も多く残っていますし、実際にこれを裏付ける考古学的な発掘の成果もあり、最近分かってきました。
面白いのは武蔵国の「閑地」。これは空き地という意味になります。それまで先住の人がいなかった。新座市っていうのは江戸時代に玉川上水を分水して野火止用水という用水路ができてから初めて村がたくさんできたようにですね、奈良時代どころか江戸時代まで人が暮らさなかった場所なんですけれども、そこにですね、やはり関東地方各地からの渡来人が大勢やってきて、ここには新羅の渡来人がやってきて新羅郡を作ったという記録があるんですね。
ですから、この『日本書記』に続く『続日本紀』という資料の記録から、1つは、716年に高句麗からの渡来人が集まってできた高麗郡が今の日高市、飯能市あたりにできて、さらにその42年後の天平宝字2年、758年に今の新座市、朝霞市、和光市、志木市あたりに新羅の国の渡来人が70数人やってきて新羅郡を作った、こういうことが文献資料から分かっているんですね。
それでは、なぜこういう人たちがここに移り住んで、なぜ外国の国名をつけた郡ができたのかということについては、次でお話ししたいと思います。
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