江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜が、大政奉還を行ったのは慶応3年(1867)11月で、12月には王政復古が宣言される。年が明けて慶応4年(1868)1月に鳥羽・伏見の戦いがあって幕府軍は敗退、慶喜は大坂城を脱して海路江戸に戻った。

二条城二の丸御殿。最後の将軍・慶喜はここで大政奉還を幕臣や諸大名に伝えた

 新政府軍は、これを追って関東に下り3月には江戸に迫った、しかし、慶喜が恭順に徹して城外に蟄居したため、有名な勝海舟と西郷隆盛の談判によって江戸城は無血開城の運びとなり、4月に新政府軍によって接収された。

 そして、9月には慶応が明治と改元されて、明治天皇が江戸城に遷幸。天皇はいったん京都に戻ったものの、「江戸」は「東京」と改称されて新政府の首都となり、江戸城も皇居となったのである。

上野公園に建つ西郷隆盛像

 ところがその少し前、慶応3年の暮れに江戸城の本丸御殿は火事で焼失していたのである。本当なら、ただちに本丸御殿の再建が行われなくてはならないが、何せ大政奉還と鳥羽・伏見の間というタイミングだから、それどころではなく、あれよあれよという間に明治維新・東京遷都になだれこんでしまった。

 そこで、明治天皇は西の丸御殿に入ることとなった。西の丸は本丸とほぼ同じ高さで本丸から見下ろされる形にはならないから、御所として使う分にも差し支えない。そのまま西の丸が皇居となって(建物は何度か建て替えられた)現在に至っている、というわけだ。

 考えてみれば、慶応3年暮れというタイミングで本丸御殿が焼失していなかったら、皇居は本丸に置かれていて、われわれは江戸城を自由に見学することなど、かなわなかっただろう。歴史の、ちょっとしたイタズラである。

江戸城西の丸にある皇居宮殿