農作物は「商品」ではない

 私はもう一度農業が基幹産業になるべきだと思っている。経済的な意味での基幹産業になることはないだろうけれども、この社会の「根源を支える活動」という意味での「基幹産業」であることは、国民が自分の意思で決定できることである。

 統治者たちが「農業が国の基幹産業である」という哲学を持てばよいのである。農業がGDPの何パーセントであるとかいう話をしているのではない。土を耕して、天の恵みにすがって、食べ物をつくるという営みが人間的諸活動の基本であり、数万年にわたるこの活動を通じて、人類はその集団的なあり方の基本を創り出したという歴史的事実を決して忘れないということである。

 農作物は商品ではない。あたかも商品のように仮象して市場を行き交うけれども、それは農作物を「あたかも商品であるかのように」扱う方が、農作物が安定的に供給されるという経験知に基づくものである。

 他の商品は(自動車でも携帯電話でも)供給が途絶しても、それで人が死ぬということはない。でも、農作物は供給が途絶すると、しばらくすると争奪で人々が争うようになり、やがて人が餓死し始める。だから、絶対に供給を中断させてはならないのである。これを市場に委ねるというのは、人間の傲慢である。コロナ禍の時に、「必要なものは、必要な時に、必要な量だけ市場で調達すればよい」と言い募っていた「クレバーな経営者」たちのせいで、たくさんの人が死んだことを忘れてはいけない。

 だから、食物、医療、そして教育は絶対にアウトソースしてはいけないのである。それだけは国民国家の枠内で自給自足できる体制を整備しなければならない。それが国家的なリスクヘッジの基本である。だから、世界の先進国のほとんどはそれをめざしている。しかし、日本は医療だけはなんとか維持できているが、食物と教育についてはもう国内で国民が求めるものを創り出す力がなくなっている。そして、そのことについて政治家たちも官僚たちも財界人たちもメディアも、危機感を持っていない。恐ろしい事態だ。こんなことを続けていたら、日本にはもう未来がない。

 戦闘機やミサイルを買う予算があるなら、農業と医療と教育に投じるのが本当の意味での「国防」である。国民が飢えて、病に苦しみ、求める教育機会が得られないのなら、それは国民を「見捨てている」ということである。国民を見捨ててつくった金で兵器を買い集めて、政府はそれでいったい何を守るというのか。

 日本はもう経済大国になることはない。人口は21世紀の終わりには5000万人にまで減ると予測されている。明治40年ころと同じである。でも、そのときも日本人は全国津々浦々で生業を営み、固有の文化を享受していた。これからの時代、なおそれなりに豊かに暮らすためには、農業と医療と教育に最優先に資源を分配し、たとえ貧しくても、誇り高く、道義的な国として生きるのが適切な選択だと私は思う。同意してくれる人は少ないけれど、私はそう信じている。

沈む祖国を救うには』(内田樹著、マガジンハウス新書)