皇室における“広報マン”のような存在だった寬仁親王殿下

 思い起こせば、父である寬仁親王殿下もまた、率直な発言で注目を集めた人物であった。社会問題への関心も深く、テレビ番組などにも積極的に出演されており、前出の「徹子の部屋」にも登場されたことがある。

故寛仁親王(写真:共同通信社)

 1975年の「オールナイトニッポン」以外にも、1981年には、文化放送の障害者福祉をテーマにしたラジオ番組、「あすを明るく~ハッピーモーニング」のパーソナリティを務められた。いわば、寬仁親王殿下は、当時の皇室における“広報マン”のような存在であったとも言えるのだ。

 彬子さまは、そんな父の姿を間近で見て育ち、ご自身もまた現代社会における「開かれた皇族」のあり方を、ずっと模索されてきたのかもしれない。今回のラジオ出演は、父から娘へと受け継がれた、皇族としての役割だったとも言える。

2010年7月、トルコの「カマン・カレホユック考古学博物館」開館式に出席された寛仁親王と彬子さま(写真:共同通信社)

 皇族の放送番組出演の先例としては、1960年、上皇陛下の妹でおスタちゃんの愛称で親しまれた島津貴子さんによる新婚旅行の様子のテレビ収録や、トーク番組「スター千一夜」への出演、1970年の大阪万博の中継司会などがある。皇室とメディアの関係は、時代ごとにその形を変えながらも、一定の距離感の中で続いてきた。

 そうした歴史の延長線上にある今回の放送は、「メディアを通じて皇室と社会をつなぐ」という、新たな皇室像の提案でもあった。