チャイナスクールの問題

 国民目線で見れば、日本外交の弱腰の最たるものが対中外交であり、その元凶とされてきたのが外務省内の中国専門家、いわゆるチャイナスクールである。彼らは入省時に中国語を研修するように命じられ、その後、外交官人生の大半にわたって中国関係の業務に従事することとなる。ただし、一言でチャイナスクールといっても十把一からげで括るわけにはいかず、因数分解していくと色々な要素がある。

 外務省にあってチャイナスクールこそは、中国語を学び、外交官人生を通じて中国の歴史、政治、社会の勉強をすることを生業としてきた者たちだ。私はアメリカンスクールだが、1990年代半ばに外務省中国課の首席事務官を務め、その後、香港の総領事館で2年間勤務した経験を有する。また、局長時代はインテリジェンス担当の国際情報統括官として、中国問題には最も多大なエネルギーを注いで取り組んできた。その意味では、チャイナスクールの実態をよく知る立場にあった。

 90年代の実体験として忘れることができないのは、その頃、チャイナスクールの大御所たちは「いずれ中国は日本を抜き、いったん抜いたら日本なんて見向きもしなくなる」と口をそろえて言っていたことだ。であれば、なぜ円借款を湯水のように中国に注ぎ込み、日本企業には対中進出、投資を働きかけ、中国をここまで大きくしてしまったのか? 経済協力、貿易・投資の増大を通じて中国を経済大国にする大きな手助けをしただけでなく、日本の安全保障上「最大の戦略的挑戦」と日本政府自らが称せざるを得ないような状況を招いた責任はないのか?

 その関連で言及しておくべきは、「お人好し」なくらいナイーブだった対中姿勢だ。1989年の天安門事件の後、中国が国際社会の前で露呈した甚だしい人道軽視、人権蹂躙を受けて、日本を含む西側諸国は連携して対中経済制裁措置をとった。ところが、「中国を孤立させてはいけない」とG7諸国に呼びかけるだけでなく、この制裁を真っ先に緩めたのが日本だった。のみならず、その過程では、天皇陛下(今の上皇陛下)の訪中招請に応じて陛下の訪中をお膳立てしてしまったのも外務省だった。当時中国の外相であった銭其琛は、のちに著した回顧録で「日本が対中制裁の最も弱い環だったので、日本から突き崩していった」などと手の内を開陳して自慢しているほどだ。

 五十歩譲っていえば、チャイナスクール的存在は、どの主要国の外交当局にもある。米国、英国、豪州、ドイツ、フランス、どこも似たようなものだ。往々にして中国専門家は中国の立場を代弁しているように見られて国内で肩身の狭い思いをしている。ことに、中国の場合はいったん中国に睨まれると徹底的に排除され、ひいては中国関係の事務に携われなくなるという強迫観念が働く。かつて東京外国語大学の中嶋嶺雄教授が中国に行けなくなったような例が代表例だ。

 しかるに、日本は対中外交の最前線国家だ。歴史的にも文化的にもつながりが密であり、中国に一番習熟した立場にある。だからこそ、対中認識、姿勢、具体の対応においてリーダーシップをとるべきなのだが、果たして日本のチャイナスクールにそうした意識を持っている者がどれだけいるのか? 日中関係の処理に当たるだけがチャイナスクールの役割ではないのだ。英語も駆使しつつ、日本が有する中国問題についての知見や経験を友好国と共有して国際社会をリードしていくことも、大事な職責である。

国家衰退を招いた日本外交の闇』(山上信吾著、徳間書店)