
第二次トランプ政権で新設された「政府効率化省(DOGE)」のトップとなり、その言動が世界中から注目を集める実業家のイーロン・マスク氏。世界の命運を握る彼の半生と行動原理が分かる「公式伝記」は2023年に世界同時発売され、翻訳書のエキスパートが選ぶ2023年のベストワンにも選出されている。
なぜマスク氏はあのような言動を繰り返すのか?華々しい事業成功の陰には過酷な生い立ちと父親の影響があった。
※この記事は、『イーロン・マスク』(文藝春秋)より一部抜粋・編集しました。
イーロン・マスクに色濃く残る父親の影
南アフリカで育ったイーロン・マスクは痛みも知っているし、そのなかで生きていく術(すべ)も知っている。
12歳のとき、ベルドスクールなる荒野のサバイバルキャンプに放り込まれた。映画にもなった『蠅の王』の軍事教練版という感じだったらしい。配給される水も食料も少ない。ただし人の分を奪うのは自由──いや、むしろそうしろと勧められた。
「手荒にするのはいいことだとされていた」と、弟のキンバル・マスクも証言している。
だから、体の大きい子は小さい子の顔を殴り、持ち物を奪った。イーロンは体も小さければうまく立ち回れる性格でもなかったので、2度も殴られてしまう。キャンプが終わったときには5キロ近くも体重が落ちていた。
第1週の終わりには、2グループに分かれて戦わなければならない。
「狂ってますよ。わけわかりません」とイーロン・マスクは言う。何年かにひとり死ぬ子が出る。だから気をつけろ、「去年死んだうすのろみたいになるな。弱いうすのろになるな」とキャンプ指導員に注意されたそうだ。
2回目のベルドスクールはもうすぐ16歳になるころだった。身長180センチあまりと背も伸びたし、クマのようにがっちりした体格になっていたし、柔道も習っていた。だから、2回目はそれなりだった。
「手荒にしてくるやつがいたら顔の真ん中に思いきりパンチをたたき込めばいい、そうすれば二度と手荒なまねはしてこないとわかりました。たこなぐりにされても、そこできつい一発をお見舞いしてやれば、次にまたということはないんです」
1980年代の南アフリカは血なまぐさい場所だった。機関銃による攻撃やナイフによる殺人が日常茶飯事。反アパルトヘイトのコンサートに行く途中、電車を降りたら、頭にナイフが刺さって死んでいる人がいたこともある。
イーロンもキンバルも血の海を歩いて渡るしかなく、その日は、スニーカーについた血が歩くたびにいやな音をたてたという。