なぜ24すべての調性を弾かねばならないか?
さて、先ほどの記事には「ルター派プロテスタントの信仰心の篤い敬虔な姿勢と、持ち前の勤勉さで音楽に人生を捧げた人物」と記されていて、キリスト教との関係を指摘しているのは、とても良いと思います。
ただ、音楽の構造と宗教が結びついていないのが惜しいので、藝大生にはよく話しますが、同時に、むしろ同志社大学で神学の学生にキリスト教音楽を教えるような場で強調する内容を補っておきましょう。
普段強調しませんが、私は近代日本では極めてマイナーな、父祖から4代目のクリスチャンでもありまして、こういうことは私のレッスンではやや細かくやるのです。
「信仰心のあつい敬虔な姿勢」と書いてありますけど、何が「篤い信仰心」で何が「敬虔な姿勢」「敬虔ではない姿勢」なのでしょう。キリスト教教学において・・・?
この場は、大学院神学研究科の学位審査(合格すると牧師になれます。私も審査したことあるんですよ)ではないので、うるさいことは言わず、エッセンスだけにとどめます。
いま、毎日礼拝堂の掃除を欠かさず50年間奉仕してきた、信仰心の篤いクリスチャンのご老人が、転んで怪我をして、寝たきりになったら、「信仰心」は薄くなったと言えますか?
毎日掃除をしていれば「熱心なクリスチャン」、寝たきりになったら「怠け者のクリスチャン」・・・そんなこと、あるべきではありませんよね(苦笑)。
信仰の強い弱い、熱心不熱心を、陽に説いても意味はないのです。
これはプロテスタントによる宗教改革の本質的なポイントで、「職業召命説」なども周知かと思います。何をしていても、それがどうであっても、本人がそれを信仰として実践していれば信仰足り得る。
寝たきりになって悲観しているおばあさんを、がっかりさせるような説教を決して伝道者はしてはいけないんですね。
誰もが平等で、誰も排除しない、つまり誰でも門口で受け入れる、広く扉を開かれた教会・・・。
これがプロテスタンティズムが切り開いた、キリスト教の大きな可能性の一本質で、それに音楽で奉仕する人が方法的な徹底を志した。
J. S. バッハの仕事を、端的にキリスト教音楽の観点から特徴づければ、こんなことになりますが、これは演奏に役立つ現場の智慧なのです。
私は実技の人間ですのでそういうことを教えています。つまりこういうことです。
「平易な旋律」というのは、誰でも初見で(教会学校では読譜を教えますから信徒はみな、そこそこの聖歌は初見で歌えるのです)歌え、唱和することができる音楽のことを指します。
誰をも排除しない、音楽を通じての信仰の顕現であるし長短24の調性すべてを演奏するというのは、全能の創り主である主なる神は、決して特定の調性だけを愛されはしなかったことを示しています。
ハ長調もト短調も、変ニ長調も嬰へ短調も、すべての響きに等しく恩寵の光を注がれた(に違いない)という宗教的な核心、世界にはそのような響きが必ず埋まっているはずだという確信に基づいて、可能なあらゆる音の組み合わせを労作して、音楽へのアプローチそのものを格段に深化させた・・・。
「フーガの技法」で示される取り組みは、そのように読むことで、単に音楽の表層を撫でるのとは違う、より深いアプローチができるかもしれない。
そこで、専門学生諸君には「頑張ってね~」とはっぱをかけるわけです。
では、バッハが「極限」まで洗練して、音楽は終わりになったのか?
例えば、バッハの生まれる直前、彼の地元、ドイツの片田舎ではなく花の都ウィーンは墺土戦争、第2次ウィーン包囲で大変なことになっていたわけです。
オスマン・トルコの歩兵(イェニチェリ)軍楽隊の、強烈極まりない音楽は、かつて向田邦子のドラマテーマとして昭和の視聴者にもインパクトを与えましたが、18世紀のウィーン人も例外ではなかったわけで、やがて「チューリップ時代」と呼ばれるトルコ風文化の流行が「ロココ風」という「バロックを発展させた」様式に繋がる・・・。
なんていうわけですが、こと西欧音楽に関しては晩期バロックで完成された長短12の調性を自在に転調する音システムに、オスマントルコ軍楽などに見られる音の運動、新しいリズム動機などが加味されて様式が拡大した「前期古典派」~「盛期古典派」端的にはモーツァルトやベートーヴェン中期までがこれに当たると言ってよい。
ただ言うだけじゃ作曲にも演奏にもなりませんから、これを実践させるわけですね鍵盤上でも声楽でも。
その証拠に、モーツァルトにもべートーヴェンにもよく知られた「トルコ行進曲」があるでしょう?
バッハが極限まで完成したはずなのに、その後どうしちゃったの?
いえ、ムスリム文化を取り入れて、音楽のグローバリゼーションが少し進んだものを、ヨーロッパというのは因業な文化だから「古典派じゃぁ」などと開き直ったわけです。
実際は東方、オスマントルコの影響でも、「古典古代、ギリシャ・ローマ以来の西欧伝統でござい」と、ロココを拝欧主義に読み替えた。
ゲーテもシラーもベートーヴェンも、いや、カントもグリムもヘルダーも、そんなちょっとヒネくれた観点から見ると、変に崇拝することなく、あるがままに読解することができる・・・。
20世紀後半テキストリーディングの成果は、こんなふうに西欧音楽に対しても様々な新しい「読み」を可能にしているのですね。
最後の方では、やや高度な話を記しましたが、むしろこういうことが一番間口が広い「クラシック音楽のミッション」と私は思っているわけです。
今日の自由と平等、民主主義の器となった近代キリスト教神学の成果、それを縦横に長短24すべての調性で実現したのがバッハやヘンデルの世代、それにトルコ・イスラムの唐草模様からナポレオン軍の大砲の音まで導入した異形の音楽が「古典派」の本当の正体である・・・。
崇拝するのでなく、建設的批判的に原典に向き合うというのは、音楽だけでなく、物理でも数学でも、文学でも社会学でも、いやいや、行政や企業経営の現場でもおよそあらゆる局面に通じる、普遍的な骨法と私は考え、学生にはそのように教え、自分も努力しています。