仲間と株仲間

 本屋を含む各業種の問屋商人が、営業権の独占など自分たちの利益を守るため、自主的につくった同業者組合を、「仲間」という(佐々木克朗『江戸時代中後期における富裕商人の活動に関する研究 株仲間と酒田本間家』)。

 加入にあたり多額の入会金をとったり、店を借りようとする者の妨害をしたり、流通経路を独占し、「買占め」や「売惜しみ」をし、経済が不安定になったことなどにより(鈴木敏夫『江戸の本屋(下)』)、当初、幕府は仲間組織の結成を認めていなかった。

 ところが、八代将軍・徳川吉宗の時代、物価統制策の一環として、仲間組織結成を解禁する(橋口侯之介『続和本入門 江戸の本屋と本作り』)。

 冥加金(みょうがきん)・運上(うんじょう)という事実上の営業税の上納を条件に、商人や職人の仲間組織結成を公認し、営業の独占を認めはじめた。

 認められた営業の独占権を「株」、その仲間を「株仲間」という(以上、『詳説 日本史研究』)。

 後に渡辺謙が演じる田沼意次は、株仲間の促進策をとり、冥加金・運上の対象を拡大し、幕府財政の増収を図っている。

本屋仲間

 町奉行所から仲間結成を命じられ、享保6年(1721)8月、江戸書物問屋仲間が公認された。仲間員は47軒だったという。

 江戸だけではなく、京都書林(本屋)仲間は享保元年(1716)、大坂本屋仲間は享保8年(1723)に、それぞれ公認されている(以上、今田洋三『江戸の本屋さん』)

 仲間への加入により、「本屋仲間株」が取得できた。

 株は売買や譲渡のみならず、抵当権の設定、質入れも可能であったという。

 本屋仲間は仲間株の他にも、現在の版権にあたる「板株(はんかぶ)」も、もっていた。

 なお、享保の段階では、地本問屋は仲間結成を命じられていない。

 江戸の地本問屋側の仲間が幕府に公認されるのは、寛政2年(1790)になってからである(以上、橋口侯之介『続和本入門 江戸の本屋と本作り』)。

栄える地本の出版

山東京伝著『箱入娘面屋人魚』。口上を述べる蔦重が巻頭に登場する 画像/東京都立中央図書館

 江戸書物問屋仲間が公認された翌年の享保7年11月(一説に12月16日)、江戸出版史上において最も重要とされる出版取締令が出された。

①新刊の書物にみだりに異説などを取り混ぜない。

②既刊の好色本は、内容を改めるか、だんだんと絶版にする。

③人の家筋や先祖の事を、書物に記すのを禁じる。

④今後、出版されるすべての書物の奥書に、作者・版元を実名で記すこと。

⑤以後、権現様(徳川家康)はもちろん、徳川家に関する書物の出版を禁じる。もし、どうしてもというのであれば、奉行所の許可を受けること。

 以後、新刊本を出版するか否かは、幕末までこれを基本法令として、判断された。

 判断は幕府ではなく、その業務を委託された江戸書物問屋仲間が下している。

 だが、仲間結成を命じられていない地本問屋が扱う出版物は、ノーチェック状態であったようだ。

 地本の出版はますます栄え(以上、安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』)、やがて、江戸出版界は「メディア王」蔦屋重三郎を迎えることになる。