九戸城 撮影/西股 総生(以下同)
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(歴史ライター:西股 総生)

近世南部家の藩祖・南部信直

 1月15日の本サイトに盛岡城の記事「圧倒的な石垣に魅せられる北の名城・盛岡城、完全な織豊系近世城郭の縄張に見る、藩主・南部家の意地」を掲載したが、盛岡方面に城歩きの旅に行くならぜひ立ち寄ってほしいのが、今回紹介する九戸(くのへ)城だ。九戸城は、一般にはさほど知名度のある城ではないが、ていねいな発掘調査に基づいて良心的に整備されていて見ごたえがある。何より盛岡城と近世南部藩の成立を知る上で、欠かせない城なのである。

二ノ丸から空堀ごしに本丸を見る。城内は整備が行き届いている

 家伝によれば、南部氏はもともと甲斐源氏の支族で、源頼朝の奥州戦役に際して功を立て、陸奥に入部したことになっているが、確証はない。やがて南部氏は一族を派出させながら、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて勢力を築いていった。

 その宗家は、八戸の根城に本拠をおく根城南部家であったが、戦国時代になっても統一的な権力を持つには至らなかった。ふだんは一族の各家がめいめいに領地を支配していて、宗家といっても儀式の時に代表幹事をつとめるくらいな感じである。

本丸の虎口が堂々たる枡形となっているのは蒲生氏郷の手になるもの。一見土塁のようだが崩れた石垣の跡が見てとれる

 後に近世南部家の藩祖となる南部信直という人は、もともと宗家ではなく、一族の端っこの方にいた人物らしい。ただ、近世に入ってから信直の事績を正当化するように系図や記録が改竄されたようで、正確なところはよくわからない。いずれにせよ信直はかなりな辣腕をもって、一族の中をぐいぐいとのし上がっていった。

 ときに豊臣秀吉が、天下統一に向けて総仕上げを行おうとしている頃のこと。奥州諸将に小田原への参陣を呼びかけた秀吉に対して、「はい、私が南部家の当主です!」と手を挙げたのが信直だった。秀吉にとっては、地方豪族の内部事情などどうでもよい。自力で家中を切り従え、軍勢を連れて参陣してくる者を当主と認めるだけのことだ。

九戸政実時代の面影を残す二ノ丸の土塁。蒲生氏郷による改修は城の中心部のみだったようだ

 こうして信直は、南部家の当主=広大な南部氏勢力圏の支配者として、中央政権から公認されることとなった。もちろん一族の中からは不満が噴きあがるが、信直は強引に権力集中を進めていったらしい。

 そうした不満分子たちの最大勢力として、天正19年(1591)の2月に挙兵したのが九戸政実だった。一般には、小田原の北条氏が屈したことで秀吉の天下統一は完成したようにイメージされがちだが、実際にはこの時期、「新体制」に抗する蜂起が奥羽の各所で起きていたのである。

二ノ丸の巨大な空堀。蜂起した九戸政実が討伐軍に備えて城の防備を固めた様子がうかがえる

 当然、豊臣政権も叛乱に対処する態勢は整えている。浅野長政・蒲生氏郷・堀尾吉晴・井伊直政といった錚錚たる面々が討伐軍として送り込まれ、信直とともに九戸城を包囲した。頑なに抗戦を続けてきた政実も衆寡敵せず、9月4日に九戸城は陥落。政実は降人となったのち斬首され、籠城軍の主だった者たちも軒並み処刑された。

 さらに、戦後処理として現地にしばらく駐留した蒲生氏郷は、九戸城の中心部を大改修して信直に引き渡した。こうして信直は、織豊系城郭のセオリーで築かれた新式の居城を手に入れることができた……居城の構造を中央政権が把握済み、という「お墨付き」と引き換えに…… 。

広々とした本丸。蒲生氏郷によって再築城された九戸城は「福岡城」と改称され、本丸には豪壮な御殿が建てられた

 以上のような、九戸城と近世南部家成立との関係を見てくるならば、やがて南部家が不来方(こずかた)に北奥羽随一の堅城を築いた理由も、飲みこめようというものだ。南部家が近世大名としての権力を「確立」するためには、お仕着せでない自前の、しかもより堅固な居城がほしかったのである。

本丸南側の空堀とW形に崩された石垣。南部家は不来方(盛岡)築城にあたって、この城を使用不能なように破却したようだ。籠城する不心得者が現れないように

 南部家が九戸城を居城とした期間は、わずかに6年ほど。しかし、そこに刻み込まれた歴史とその意存在意義とを思うなら、この城はなかなかに濃い。 

本丸西側の喰違い虎口ごしに二ノ丸を見る。南部家がこの城を居城とした期間は、ごく短かい