(1)「恥ずべきは性加害者」

 ペリコさんが公判中、最も注目を集めた発言は、「恥ずべきは私たち(性的暴行の被害者)ではない。彼ら(加害者)だ」というものだ。卑劣な犯罪行為の容疑者として裁判所に姿を見せた男たちの中には、野球帽やマスクなどで顔を隠すものもいた。

 対照的にペリコさんが顔をあげ背筋を伸ばし、毅然と裁判所を出入りする姿は、この発言を体現するものとして称賛された。しかし、ペリコさんは裁判の初めから堂々と振る舞っていたわけではないとされる。裁判を取材したBBCの記者によれば、ペリコさんは当初背中を丸め、周囲に壁を作るような様子だったという。

 性的暴行は、一人の人間の尊厳を踏みにじる犯罪行為だ。しかしこの痛みを想像しようともしない社会の偏見により、被害者となった人たちの多くが、あたかも自身に非があるように錯覚してしまう。

 公判が進むにつれて、ペリコさんはより自信をもって歩くようになったという。裁判所には、日々大勢の女性らが集まり、彼女を拍手で迎えるなど目に見える形の支援があったことも関係するだろう。

ペリコさんへの支援の輪は大きく広がっていった(写真:Europa Press/ABACA/共同通信イメージズ)

 これが今の日本で起きた裁判であったなら、果たして公にこれだけの支援が集まっただろうか。

 性的暴行は立証が困難であり、しばしば被害者への偏見に転換され、責任転嫁される。仏公共政策研究所は今年の統計で、性的虐待の86%、また強姦の94%が起訴されないか、裁判にすら至らないとしている。

 ペリコさんのケースでは、皮肉にも夫のドミニク被告が「保険のため」として記録していた性的暴行の動画が動かぬ証拠となった。しかし動画の存在にもかかわらず、弁護側は公判中ペリコさんに対し「あなたは実は露出狂なのではないか」などと、ペリコさんに責任転嫁を試みている。こうした裁判におけるやりとりは、弁護側の常套手段とされる。

 性的暴行により人々が受ける心の傷は、傷害事件などと異なり目には見えない。社会全体がこうした傷の深さに思い至らず、想像力が欠如した思考のままでいれば、被害者攻撃が絶えることはない。ペリコさんの事件で、最も重要なポイントの一つと考えられる。