「公共サービス」になったSNSのジレンマ
橘:この公約をそのまま受け取れば、陰謀論を含めた政治的議論をSNSのプラットフォーマーは全面的に許容せよ、ということなのでしょう。ただし、だからといってトランプの主張が間違っているということにはなりません。
民主国家において、選挙という正当なプロセスを経て選定された政治家が法を制定し、言論空間を規制するのは正当でしょう。それに不満があれば、有権者は次の選挙で、その政治家を落選させればいいのです。
それに対して、民主的に選ばれているわけでもない社会活動家や、左派(レフト)の知識人、大学の教員などが、一方的に他者の言論をキャンセルする権力を行使するのは公正さを欠き、正当化が困難です。
右派・保守派によるキャンセルも同じですが、「民間人には他者の言論を批判する自由はあっても、言論や表現の自由そのものを奪う自由はない」という常識的な主張はマスクと同じです。
一方、SNSを運営するビッグテック側も、近年は投稿対応に追われ、疲弊しているようです。
Meta(旧:Facebook)の監督委員会は投稿対応をチェックする裁判所のような第三者機関で、法学者やジャーナリスト、人権活動家らを集め、「文字通りの意味で暴力を煽動しているのか、反感や非難を表す比喩的表現として表現しているのか」といったように、個々の投稿に対して真摯な検討を行なっています。
岸田前首相に対して“死ね”というハッシュタグをつけたコメントを削除したことに関する監督委の資料を読みましたが、正直、こんな大変なことをいつまで続けられるのかと思いました。
監督委は、「反社会的な投稿は規制すべきだが、独裁政権を批判する投稿は削除してはならない」という原則のもと、なぜそのような判断をしたのかを長文の文書によって説明しています。これは言論空間への重要な貢献で、その意義は決して小さなものではありません。
その一方で、「コンテンツ管理に多額のコストをかけることがマーク・ザッカーバーグの利益になる」という批判もあります。
国家は言論・表現の自由に介入したと思われたくないので、法律ですべてのSNSにMetaの監督委のような第三者機関の設置を義務づけたとしましょう。しかしそうなると、コンテンツ・モデレーションとその監督に必要な膨大なコストを負うことができるのは、すでに成功しているプラットフォーマーだけで、意欲的なベンチャーがSNS市場に参入できなくなってしまいます。
ザッカーバーグはインスタグラムが若者のうつや自殺に関係しているとして、アメリカ議会の公聴会に呼ばれてさらし者にされていますが、だからといって規制に反対しているかどうかはわかりません。
議会が規制を求めれば求めるほど、ライバルの参入が困難になって、プラットフォーマーとしての地位が安泰になるからです。