「エースで4 番」、夢のようなことができるのがプロ野球
1968年、近鉄バファローズに永淵洋三という26歳のオールドルーキーがいた。
4月16日の東映フライヤーズ戦、2 回裏に代打で登場した永淵が、鮮烈なプロ入り初ホームランを放つと、続く3 回表、三原脩監督は選手の交代を告げた。
「ピッチャー、永淵」
この試合、永淵は2回3分の2を投げ、2安打1失点。見事な二刀流デビューを飾った。
そもそも永淵さんは、ピッチャー登録の選手だった。だが、キャンプの紅白戦で見たバッティングが忘れられず、三原監督はバッターとしても使うことを決めていた。人気、実力ともに劣るチームに目を向けさせようとする、三原監督の話題作りの側面も強かったようだ。
結局1 年目、ピッチャーとしては12試合で0勝1敗という成績に終わったものの、バッターとしては74本のヒットを放ち、ホームランが5本、打点30という数字を残した。
そして、バッターに専念した2年目には、打率3割3分3厘を記録し、あの安打製造機と呼ばれた張本勲さんと首位打者のタイトルを分け合っている。
という選手が、昔はいたわけだ。
そしていま、大谷翔平にやらせてみようと、僕は本気で思っている。
はじめ、二刀流育成プランを提案したとき、大谷はこうコメントしていた。
「自分の中で(ピッチャーとバッターの)どちらでやりたいのか……、やりたいほうはピッチャーなんですけれども、どちらで、というのが自分の中ではっきりしていない。どちらでもやってみたい。すごく嬉しかった」
プロ野球で「エースで4番」というのは、まさに夢のような話だ。
それでいい。プロ野球はそうじゃなきゃいけない。現実の世界で、夢のようなことができるのがプロ野球なのだ。
とはいえ、キャンプイン前から、大谷の二刀流挑戦については、いろんなところから否定的な声も聞こえてきていた。そんな要らぬ声で本人を惑わせたくはない。そのためには全コーチ、スタッフにも迷いを捨ててもらう必要があった。
だから、あえて宣言した。
「大谷翔平の二刀流、オレはやります」
本気でやるから、聞こえてくる否定的な声から彼を守ってやってくれ、そう頼んだ。
「なぜ、二刀流なのか」という質問には、「どっちがいいのかわからないから。だったら両方やって、自然にどっちかに行ったほうがいい」、そういう答え方もある。
大谷ほどの才能を持った選手を、はじめからプロ野球の枠にはめ込んで、固定観念で決め付けるようなことをしてはいけない。我々ごときの判断で、彼の人生は決められない。自分で結果を残しながら、自分が行きたい方向に進んでいけばいいのだ。