中学時代の挫折から立ち直らせた両親の一言
――水多選手は小学校時代からナショナルトレセンにも選ばれるほどの実力を持っていましたが、その当時のご自身の印象はどうですか?
水多海斗 小学生の時は多摩区にある中野島FCでプレーしていたんですけど、サッカーに関してはすごく自信を持っていました。
小学4年生の時に始めて、当時、川崎フロンターレの下部組織に所属していた久保建英選手(現・レアル・ソシエダ)と出会って、彼が同世代では一番の選手だと思いました。
でも自分もそれに負けないぐらいの実力があると感じたので、建英以外に敵はいないなと。それぐらいサッカーは上手いと自負していましたね。
――中学からはFC東京U-15むさしでプレーされました。ほかにもJリーグの下部組織がある中で、入団を決めた理由というのは?
水多海斗 地元のクラブで、小学生の時にスクールにも通っていて、どういうチームかわかっていたことが入団を決める大きな理由となりました。
ただ中学校1、2年生の間はあまり試合に絡むことが出来ませんでした。
小学生の頃は周りと比べて体が大きかったのに、中学に入学してから成長が止まってしまって。フィジカル面での優位性を保てなりました。
加えて、僕はずっとドリブルしかしない選手でしたから、味方と連動するプレーの必要性をまったく理解できていなかったんです。
コーチからパスや連携プレーを要求されても「俺には必要ない」「この人は何を言っているんだろう」みたいな感じで。
そんな独りよがりな選手が使ってもらえないのは当たり前でした。
それから2年間、試合に出れない状況が続いて、3年生になった頃、さすがに「これはやらなきゃ」と思い始め、パスやチームプレーを練習するようになったんです。
そうしてようやく試合に出れるようになり、全国優勝して大会の優秀選手にも選ばれました。
自分の性格上、少し頑固なところがあり、ここだけは譲れないと思うことが多いので、コーチの言葉を聞き入れるのに時間がかかってしまいましたね。
岡崎慎司 でも、最終的にその大事な部分に気づけたのは大きかった。そこに気付けるかどうかで、その後のサッカー人生がだいぶ違ってくると思うから。だからある意味、その2年間があったからこその今、ということも言えるよね。
――その試合に出れない2年の間に、ご両親からアドバイスだったり、出場機会を求めて他クラブへの移籍を勧められたりはしなかったのでしょうか?
水多海斗 いろいろな話はされました。
もともとサッカーをしていた父親は、うまくいかないことに対しては「べつにそれは悪いことじゃない」と。でも「もう少しこういうことが必要だ」と、詳しく話をしてくれる人でした。
一方の母親はほとんど僕の試合は観に来ないんですけど、たまに応援に来た時に「お前は本当に悪いプレーをしてるね」みたいな(笑)。めっちゃ厳しかったのを覚えています。
でもふたりとも、僕は自分から言いませんでしたけど、中学時代にサッカーでうまくいっていないことは気付いていました。
グレるまではいかないですけど、家に帰ったらただいまも言わずにすぐに部屋に戻ったり、プレイステーションでゲームする時間が増えたり。サッカーから少し距離を置いていましたから。
その時に、両親から「そんなことをやっていたらサッカー選手になれないよ」とガツンと言われたんです。
そこから意識を改めて、チームのことを考えた練習にも取り組むようになりました。いま思えば、僕がサッカー選手として変われた大きなきっかけでもありましたね。