それにしても、なぜ彼はこれほど何人ものハイレベルの情報源を得ることができたのか、あの中国で、と、皆さんも疑問を持たれるだろう。理由はいくつもある。

 まず、中国語は中国人たちの心の中に入り込んで掴めるほど達意だった。党・軍・政府の幹部や若手らと酒席で談論・激論を交わすのもしばしばで、そこから中国人の考え方そのものを掴み取っていったと言っていい。その会話力に性格・振舞いを含め、「藤田さんは、われわれ中国人以上に中国人です」と、来日した中国の幹部から聞いたことがある。

 北京時代のある日、「鄧小平がこれから人民大会堂で外国メディアの記者たちに会う」というお触れが回った。“皇帝引見”の突然の知らせだ。滅多にない機会に各国記者は緊張した面持ちで鄧小平の登場を待った。

 その列に、ひとりだけ短パンの藤田氏。テニスの最中に知らせを受けた藤田氏は、そのままの格好で駆けつけたのだ。「天下の鄧小平の前に汗だくの短パン姿で立ったのは藤田さんだけ」と、このエピソードを私に教えてくれた英国人記者は大笑いしていた。誰にも遠慮しない人柄をよく表している。

銃口を向けて取り囲まれ、大ピンチ!

 そんな彼だが、面倒見は非常に良かった。現在と違い、ある時までは日本に留学してくる中国人学生のけっこうな部分が、党や政府、軍の幹部の子弟だった。彼は、都合何十人もの事実上の身元引受人になり、東京でのアパート探しも手伝っていた。彼らを食事や飲みにもよく連れ出しており、Foresightの原稿料もその費用にかなり注ぎ込んでいたはずだ。

 息子や孫の面倒を親身に見てもらった中国幹部たちの感謝の念が薄いはずがない。また、日本留学を終えて帰った当人たちも、やがては国務院その他の中枢で職を得て、幹部への階段を登っていくのである。そうやって、世代を重ねて藤田氏の情報源は充実していった。

 そのおかげで身を助けられたこともある。Foresightの依頼を受けて、彼はある夏、北戴河会議の現場にできるだけ近づこうと試みてくれた。

 河北省の避暑地・北戴河は、高級幹部らの別荘地の前に渤海の海浜が広がり、背後は聯峰山と呼ばれる小高い丘になっている。彼はその裏山に登り別荘地を一望しただけでは満足できず、静かに浜辺へと降りて行った。道に迷ったふりをしながら。しかし、すぐに警備の部隊(通称「八三四一団」)に見つかり、銃口を向けて取り囲まれる。あとで「さすがにこれはヤバいと思いました」と語ったように、大ピンチに陥ったのだ。

 そこへ、ある老婦人が散歩で通りかかった。「あら、あなた」と、警備兵に囲まれて押し問答している藤田氏を見つけてくれたのは、運のいいことに、彼が子弟をお世話した「ある革命元老の未亡人」だったのだ。ここでも名前を出せないのは歯がゆいが致し方ない。「解放してあげなさい」のたったひと言で、藤田氏はその後の厳しい取り調べや、ひょっとしたら何年にもなったかもしれない拘束から免れたのだ。

 こうして、時には危険をかいくぐりながら、行けないはずの場所に行くのも、彼の得意技だった。党や国務院の重要施設、そして幹部らの住まいが建ち並ぶ北京の「中南海」には、ある老幹部のSUVに乗り、幹部の足元の床に這いつくばって、ゲートの検問の目をかわして入った。「もう大丈夫」と言われて顔を上げると、テニスコートで「万里おじいちゃんが球を追っていた」という。そう、元全人代常務委員長その人だ。

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