さっそく会って、最初に書いてもらったのが、1991年6月号の記事「ここまできた中台の『共同歩調』」だ。中国が南沙諸島に軍事拠点を築き始めた、という、これまたとびきりのスクープなのだが、この時点では現在のような滑走路の整った軍事基地同然の施設ではなく、まだ「岩礁の上の掘っ建て小屋」のようなものだった。それほど早期から、彼はのちの国際情勢と南シナ海の安全保障環境に大きな影響を及ぼす動きを掴んでいたのである。

 藤田氏のスクープは、まだいくつもある。江沢民が、2002年秋の第16回共産党大会を機に総書記の座を退くことにしたものの、強大な権力の付随する「党中央軍事委員会主席」のポストだけは手放さず、大勢に推される形を作ったうえで「なら、もうしばらくやりましょうか」と語ったのは、党大会に先立つその夏の「北戴河会議」においてだった。

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 この記事は、党大会前の2002年8月号(「異変、中国次期トップ胡錦濤を襲う『波乱』」)に掲載されたが、この時も他メディアの後追いの勢いは弱かった。「軍事委主席任期の2年延長」という極めて変則的な情報(通例は5年単位)であったし、胡錦濤がそれほど易々と江沢民の言うがままになるとは思えなかったからだろう。党大会を経て胡錦濤は党総書記と軍事委主席というトップの地位を証明する2大ポストを引き継ぎ、翌年春の全国人民代表大会で国家主席になるものと大方が考えていた。

 しかし、このスクープの正しさは、すぐに結果によって証明された。江沢民は軍事委主席から「降りなかった」のである。ようやく胡錦濤に全軍を掌握するそのポストを譲ったのは、まさしく藤田情報のとおり、党大会から「2年後」だった。この情報も、藤田氏が長く付き合った幹部によってもたらされたものである。その人物は、自らも側近を引き連れてくだんの北戴河会議に出席していた。

突然の“皇帝引見”に短パンで駆けつけた

 大きな空振りもあるにはあった。中国の有力筋から「北朝鮮の金正日の後継者が決まった」と掴んだ時のことだ。その当時、のちに暗殺される長男の金正男がまだ存命していたが、「長男ではなく、金正日は弟のほうに継がせる気だ」というのだ。

 そこで、2005年12月号に「次男の金正哲が後継者に決定」という内容の記事(「十月二十九日『金正哲』と対面した胡錦濤」)が載ったのだが、お分かりのように、これは「三男の金正恩に決定」とすべきものだった。情報源から酒席で「腹違いの弟のほうだ」と聞かされた時、北朝鮮の専門家とは言えない彼は、当然のように歳上の次男だと早とちりしたのだ。金正哲の「線の細さ」という話を他方面から聞いていたのに、担当編集者として念のための確認を怠った私の大きなミスでもあり、せっかくの「後継者は金正男にあらず」という世界最速の特ダネの価値が薄れた。

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