彼女は食事の「一口一口を全身で味わい」、「いただきます」という日本人の「言葉の精神性」さえ「胸の奥深くに浸透」していったと書いている。

「9.11」以後のアメリカでは、情報は検閲され、自由は奪われ、かわりに国民を煽り、誘導する情報ばかりになってしまった。それ以前の、かつての堤未果は、「追い立てられるように」自分から情報を探した。

 けれど、「人断ち」をしてからは、自ら情報を探そうと必死にならなくても、「必要な情報は向こうから入ってくる」ようになったという。

 世界への疎外感から回復した堤未果は、ジャーナリストになる決意をした。

余計な「人断ち」ならだれでもできる

 べつに堤未果がジャーナリストになった経緯と動機を書きたいのではない(ちなみに堤の父親は、1980~90年代にテレビで活躍したばばこういち氏である)。彼女が、「人断ち」をして、人間としての五感を回復したことに関心があったのである。

 彼女のような隔離された「人断ち」は、普通の人間にはなかなかできそうにない。

 しかしわたしたちも、世間がうっとうしかったり、人間関係にうんざりするとき、できる範囲で、余計な「人断ち」をしていいし(すべきだし)、不要なニュース断ちをしてもいいのではないか(すべきではないか)、と考える。

 わたしは定年退職をしてから、人付き合いは激減した。とくに嫌な人間との付き合いは皆無になった。その意味で、自然に「人断ち」はできた。

 若い人やまだ現役の人からは、あんたたち老人はいいよ、といわれるだろう。だがかれらにも、無理な人付き合いは不要だし、不快な人間は極力避けたほうがいいといいたい。わたしも自分なりに何十年もそのようにしてきた。

 問題は世間断ち(情報断ち)である。

 わたしたちは、一人前の社会人になるために必要な知識や教養を得るために、新聞を読むことは必須だと思わされてきた。いまでも世間はそう思い、だれもそのことを疑いもしなかったのでる。

 だがわたしは、いまでは新聞を読まない。わたしにとって、新聞やテレビで流されるニュースの9割は不要である。わたしに必要なニュースは、生活と身の安全に関する情報だけだ。すなわち天気予報と地震速報、それに一部の興味のあるスポーツニュースだけである。その他、その都度関心のあるニュースだけ簡単に見る。