エリートvs雑草の図式は馬場vs猪木から鶴田vs藤波へ
そして新日本の藤波である。この鶴田の記事が出たのは藤波がWWWFジュニア・ヘビー級王者として凱旋帰国した直後。ドラゴン・ブームの真っ只中で、藤波の叩き上げのサクセス・ストーリーもまたファンの心を掴んだ。
アントニオ猪木のファンだった藤波は格闘技の経験がないままに16歳で日本プロレスに押しかけ入門。猪木の付き人になったものの、入門規定に満たない体格だったためにデビューまで11ヵ月もかかり、デビュー半年後には日プロを追放された師匠・猪木を追って新日本の旗揚げに参加した。
エリートとして入団した長州に遅れること10ヵ月、75年6月にキャリア4年にしてようやく海外武者修行のチャンスを掴んでドイツ、その後はカール・ゴッチの家に半年間住み込んで特訓を受け、ノースカロライナ、メキシコなどを転戦。そして78年1月23日、ニューヨークMSGでカルロス・ホセ・エストラーダを撃破してWWWFジュニア王者になった。
24歳の無名の日本人レスラーが世界の檜舞台でチャンピオンになるという快挙に日本のプロレスファンは熱狂しものだ。
実は猪木もブラジルで力道山にスカウトされて日本に帰国したエリートだったのだが、当時は「野球の名門ジャイアンツの投手からプロレスラーになり、エリートとして教育された馬場、力道山の付き人からスタートした雑草の猪木」というのが馬場と猪木のライバル・ストーリーとして語られることが多かった。
ファンはこのストーリーをエリート=鶴田、雑草=藤波に当てはめて、鶴田と藤波を新たな時代のライバルと見るようになった。
「最初はそんなに意識していなかったんだけど、馬場さんの下に鶴田、猪木さんの下に藤波っていう形でともにナンバー2っていう立場、世代的にも同じってことで、周りが“馬場と猪木”と同じような感じで見ていたよね。だから多少は“ジャンボとやってみたいですね!”って言ったかもしれないけど、内心ではそんなに思っていなかった」と、藤波は当時を振り返る。
一方、当時の鶴田は藤波について「ウチの佐藤昭雄選手と同期ということもあって、藤波選手の名前は、ニューヨークでチャンピオンになる以前から知っていました。ライバルとして意識? まったくないですね」と語っていた。
そんな2人が意識するようになるのは79年8月26日、日本武道館における『プロレス夢のオールスター戦』でミル・マスカラスを加えてトリオを組み、戸口&高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)&マサ斎藤に勝利した以降だろう。
「戸口さんや高千穂さんと戦っている時のジャンボの間と反応を見て、ちょっとはやってみてもいいかなと思ったね。ジャンボと組み合っている選手と自分を置き代えて見ると“これはやったら面白い試合ができるかな“って。全日本でジャンボとやったことがある長州は“ジャンボとやるのは大変だった。今までのレスラーの中で一番辛かった”って。“上から乗っかられるように組んでくるから、組むことすら辛かった”って言ってたけどね。詳しくは聞いてないけど、俺が思うには、長州は間が怖いもんね。間を置けないもんね。ジャンボは間を置いても魅せられるタイプだからね。長州がやりにくかったのは、そこのところなのかなとも思うんだけど」(藤波)
なお、冒頭に触れた月刊ゴングの記事には「音楽コンサートに熱を入れたり、芸能方面に目を向けたりするのは余技。世界に飛躍する、今のジャンボ鶴田にはまだふさわしくない」という記述もあるが、厳しい指摘は当時のファンが鶴田に感じていた歯痒さ、物足りなさを代弁するもの。
実はレールから外れることなくエリート・コースを歩むのも大変なことなのだが、それよりも苦労を重ねて這い上がってきた人間の方が感情移入しやすい。
それまでは鶴田の従来のスポーツ選手とは違って泥臭さを感じさせない爽やかさ、オフにはギターを爪弾いて青春を謳歌するライフスタイルがカッコいいとされたが、この頃からプロレスファンの気質が変わってきたのかもしれない。
そしてアンチ鶴田を生んだ極めつきの存在が戸口正徳……キム・ドクである。
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