最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田——。

 元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏は、誰も踏み込んでこれなかったその「謎」を解き明かすべく、取材を続けている。

「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」(小佐野氏)

 2020年5月には588頁にわたる大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓。大きな反響を呼んだ。

 それでも小佐野氏の取材は終わらない。2023年7月からはこの『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』に大幅加筆を施す形で、新たな証言を盛り込んだ「ジャンボ鶴田」像をオンラインメディア『シンクロナス』で配信し続けている。

 今回は『永遠の最強王者ジャンボ鶴田」完全版』から、エリート街道を進んできた鶴田の前に立ちはだかったライバルたちを紹介する。

“和製アメリカン・ドリーム”ロッキー羽田の台頭

 プロレス専門誌・月刊ゴングの昭和53年(1978年)本誌6月号に特別読み物として『今年26歳・プロ転向6年・全日本プロレスの星……ジャンボ鶴田が伸び悩んでいる?』という興味深い記事が掲載されている。

 UNヘビー級&インターナショナル・タッグの2冠王者として全日本の準エースの座を揺るぎないものにしていた時期で、この記事でも技術的な面では「立体殺人技の一層の研鑽を目指して実行しており、着実に前進を続けている」と高く評価されているが、指摘されたのは「エースの座への気迫に欠ける」という精神的な部分だ。

 振り返ると、デビュー半年でジャイアント馬場に次ぐ全日本のナンバー2に駆け上がった鶴田には、全日本だけでなく、日本プロレス界全体を見渡しても同じようなキャリア、同年代のライバルは皆無だった。

 1歳年下で同じミュンヘン五輪に出場後に新日本にプロレス入団し、対抗馬と見られた吉田光雄こと長州力は、まだプロレスに馴染めずに中堅どころで試行錯誤していた時期。

 全日本の第三の男として馬場にスカウトされた大相撲の元前頭筆頭・天龍源一郎は前年77年6月に日本デビューを果たしたものの、長州と同じくプロレスにつまずき、2度目のアメリカ武者修行中だった。

 そうした中で鶴田の脅威になったのは、同じエリートの長州や天龍ではなく、一介の新弟子から叩き上げてきた雑草たちだ。

「日本マット界の将来を背負う逸材と評されていたジャンボ鶴田の前に、おびただしい数のライバルが現れ始めたのである。その多くはエリート・コースを進んできたのではない。みんな雑草のようにはき捨てられ、そこからまったく独力で這い上がり、力を伸ばし、堅実にのし上がってきた者ばかりである」と、記事の中で挙げられているはロッキー羽田、藤波辰巳(現・辰爾)、戸口正徳(キム・ドク→タイガー戸口)の3人。

 大相撲・花籠部屋の力士だった羽田は73年1月、アントニオ猪木が去ったばかりの72年1月に日本プロレスでデビュー。その後、ジャイアント馬場、坂口征二が相次いで去り、キャリア1年3ヵ月で日プロが崩壊して、他の先輩たちとともに全日本に吸収されるという不遇な新人時代を味わっている。 

77年6月にアメリカ修行から凱旋して人気者になったロッキー羽田

 日プロの残党を吸収したことで全日本は選手が急増した。新人で、しかも外様の羽田は毎試合出場というわけにはいかなかったが、74年暮れのシリーズに参加したNWA世界ジュニア・ヘビー級王者ケン・マンテルに192㎝の長身を見込まれてスカウトされ、馬場の承認を得て翌75年1月にアメリカ武者修行に出るチャンスを掴んだ。

 鶴田が将来のエースとしてテキサス州アマリロのザ・ファンクスに預けられたのとは違い、羽田はマンテルが主戦場にしていたオクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピのNWAトライステーツ地区でアメリカ生活をスタートさせた後は、自らプロモーターと交渉してフロリダ、セントラルステーツ地区といったNWAの主要テリトリーを転戦して、米マット界を独力で生き抜いた。

 76年9月11日に「NWA世界ヘビー級王座への登竜門」と呼ばれていたボブ・バックランドが保持するミズーリ州ヘビー級王者に挑戦、同年12月6日にはブルドッグ・ボブ・ブラウンとのコンビでハーリー・レイス&パット・オコーナーからセントラルステーツ地区認定NWA世界タッグ王座を奪取するまでに成長し、77年5月の『NWAチャンピオン・シリーズ』に2年5ヵ月ぶりに凱旋帰国。

 同シリーズでは前年10月に大相撲元前頭筆頭の肩書きを引っ提げて全日本に入団、鶴田と同じようにアマリロで8ヵ月の修行をした天龍源一郎が日本デビューを果たしたが、羽田のスケールの大きなアメリカン・プロレスは「天龍よりもいい!」と評判になった。

 アメリカで才覚を発揮した羽田は「和製アメリカン・ドリーム」と呼ばれるようになり、どん底から這い上がったイメージから映画『ロッキー』の主人公ロッキー・バルボアにちなんで本名の羽田光男からロッキー羽田に改名。エリート・コースを歩んできた鶴田よりも雑草の羽田にシンパシーを感じ、逞しさ、頼もしさを感じるファンも少なくなかった。