4種類のスープレックスの秘密

 かつて日本のプロレスファンにとってスープレックスは最高のテクニックというイメージがあった。“プロレスの神様”カール・ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドは「プロレスを芸術の域にまで高めた」と言われた。この芸術品の日本人の使い手は、ゴッチに伝授されたヒロ・マツダとアントニオ猪木しかいなかった。 

 ビル・ロビンソンのダブルアーム・スープレックスは、日本で写真が公開された時に「これはどう仕掛ける技なのか?」と記者たちの想像も及ばない技だった。

 ダブルアームは“人間風車”として注目を浴び、ロビンソンの人気は大爆発。選手層の薄い国際プロレスで外国人初のエースにまでなった。

 昭和の時代は他人の必殺技を使わないのがプロレスの掟だったから、もちろん人間風車の使い手は皆無。

 国際と敵対する日本プロレスの選手でさえ使わなかった。

 日本で披露した外国人はロビンソンから極意を盗んで自分流にアレンジしたドリーとその弟のテリーの2人だけだ。

ダブルアーム・スープレックス

 サイド・スープレックスはロビンソンがダブルアーム・スープレックスと同時に日本に持ち込んだが、人間風車のインパクトが強く、決め技としては使わなかった。

 そのサイド・スープレックスが脚光を浴びるようになったのは72年春の国際『第4回IWAワールド・シリーズ』で“欧州の帝王”ホースト・ホフマンがフィニッシュ技として使ってから。

 ホフマンはロープに飛ばして反動で戻ってきた相手を横抱きにし、そのまま体を捻って高速で叩きつけるスタイルのサイド・スープレックスを使っていた。

サイド・スープレックス

 73年10月に鶴田が凱旋帰国する以前は、このジャーマン、ダブルアーム、サイドの3種類しかスープレックスはなかった。

 ところがアマリロから送られてきたフィルムで鶴田が4種類のスープレックスを公開したから関係者もファンも度肝を抜かれた。

 相手を正面からクラッチしてそのままブリッジしながら後方に投げるフロント・スープレックスは、初めて見る技だったのだ。

 だから当時はジャンボ・スープレックスと称するマスコミもいた。

「私がジャンボに教えたのは、アマチュア・レスリングで出来たことを、いかにプロレスで使うかという工夫だ」と、ドリーは言っていたが、フロント・スープレックスはグレコローマンの反り投げをプロレス流にアレンジしたものだ。

 反り投げは正面タックルで相手の腕と胴を完全にロックして、低い姿勢で相手の体重を自分の身体に乗せて後ろに反り、上半身を捻りながら相手をマットに投げてフォールに持ち込むという技。

 しかしプロレスのフロント・スープレックスは相手にベアハッグの形で組みつく。そして吊り上げてから身体を捻らずに真後ろにブリッジし、組みついたロックを外して相手が背中から落ちるように投げる。

 本来の反り投げはフォールを奪うのが目的だから小さく、速く投げるが、プロレスのフロント・スープレックスは遠い客席からもわかるように大きく、ゆっくりと投げる。

 そして相手が脳天や首からキャンバスに突っ込まないようにブリッジを利かせ、ロックを外して受け身が取れる状態にしているのだ。

「高度な技は私が見て、ちゃんとコントロールできていると納得しなければ使うことは許可しなかった」というドリーの教え通りに鶴田は相手の身体を巧くコントロールして投げていた。

フロント・スープレックス

 ドリーが鶴田に伝授したスープレックスは「わかりやすいように大きく、ゆっくりと」が基本だった。

 ダブルアームも本家のロビンソンは相手をリバース・フルネルソンに捕らえると同時に後方に身体を反らせて小さな弧で相手を叩きつけていたが、ドリー流を教わった鶴田はリバース・フルネルソンから196㎝の長身を生かすように背伸びをするような大きな弧で、相手を叩きつけるのではなく投げ捨てるスタイルだった。

 サイド・スープレックスはグレコローマンのリフトアップからの俵返し。

 ロビンソンはダブルアームと同じように小さい弧で高速、ホフマンもロープの反動を利した小さい弧の高速で相手が受け身を取れないような危険な投げ方だったが、鶴田のサイド・スープレックスは相手を横抱きにして持ち上げると一度静止し、そこから腰のバネ、背筋を使って豪快に後方に投げるというもの。

 そしてインター・タッグで1本目を先取したジャーマンだけはドリーに教わったのではなく、完全に自己流。

 グレコローマンのバッグ投げだから出来て当然なのだが、テリーの身体を自分の胸に乗せ、そこからブリッジして完璧に決めた。

 ジャーマンだけは大きな弧ではなく、普通にブリッジして易々と決めてしまったために逆にインパクトが薄く「なぜかジャーマンだけは迫力がない」という声も飛んだが、ベタ足でブリッジして完璧に相手をフォールするのは本家ゴッチとまったく同じだ。

 鶴田の凱旋帰国から4年5ヵ月後の78年3月に新日本プロレスの藤波辰巳(現・辰爾)がドラゴン・スープレックスを武器に凱旋帰国してドラゴン・ブームを起こし、81年には初代タイガーマスクがタイガー・スープレックスを公開、83年4月には前田日明が12種類にスープレックスを引っ提げてヨーロッパ遠征から帰国するなど、その後のプロレス界はスープレックスが大流行するが、日本人レスラーとして初めて4種類のスープレックスを使い分けた鶴田は元祖スープレックス・マシンなのだ。

 鶴田は日本人特有の根性や気迫ではなく、純粋にテクニックで勝負する新しいタイプの日本人レスラーだった。

連載記事60本以上、スタン・ハンセン、田上明が「ジャンボ鶴田の素顔」語る動画も収録。『「永遠の最強王者 ジャンボ鶴田」完全版』好評配信中!