転校生は、転校するたび毎回、クラスの連中に挨拶をしなくてはならない。これが気が重い。それにたいていの場合、教科書が間に合わないのだ。それで隣の女子生徒に見せてもらったりするのだが、これがまた、気まずいにもほどがあるのだ。

 小中のあいだは転入試験などなかったからまだよかったが、高校は入試を1回、転入試験を2回受けて面倒だった。その試験を受けるためだけに、父親と一緒に佐賀から広島へ、広島から佐世保の町に行くのである。

 いまでこそ、父親だけの単身赴任というものがあるが、昔は家族は一緒に移動するのがあたりまえだったのである。わたしは転校先でいじめられたことは一度もない。しかし転校はわたしの性格形成になんらかの影響があったと思っている。

伊万里中学3年のときの同級生から手紙が

 そんなことはまあどうでもいい。同窓会の話である。

 転校生はどの学校でも途中から(あるいは卒業してから)、その町からいなくなるわけだから、クラス会の通知などくるわけがないのである。同窓会名簿では、いつも行方不明の人間なのである。

 それが今年の正月の松の内に、1通の手紙が届いたのである。伊万里中学3年のときの男子同級生からである。

 かれらが昨年10月に同窓会を開いたとき(75歳になってもやってるというのがすごい。今生のお別れか)、拙著の書評が佐賀新聞に載ったのをかつての同級の女性が目にし、わたしではないか、ということになり、その後いろいろな伝手をたどって、手紙が届いたというわけである。

 かれの手紙に「借金の申し込みでも、昔の亡霊でもありません」「只々懐かしいだけ」とありましたが、いや正月早々、驚きました。

 じつは15年くらい前にも、佐世保北高の人から、偶然拙著を目にしたが、この著者はあの行方不明の勢古君でしょうか、と出版社を通じていきなり手紙が来たことがあったのである。

 今回の手紙で、当時、毎日一緒に通学し、放課後によく遊んだS君は、1995年の阪神大震災のときに病気で亡くなったと知らされた(大阪に出ていたのだ)。計算してみれば29年前、45歳のときだ。

 かれの場合は若すぎるが、そういえば佐世保北高から送られてきた名簿にも、おなじクラスで数名、すでに鬼籍に入った人がいた。そういう歳なのだ。