小澤征爾さんが亡くなられました。
かつて小澤さんの率いた新日本フィルハーモニー交響楽団でオーケストラのピアノ修行もさせていただい一人として追悼を記したいと思います。
本連載の順としては「松本人志」の続稿などをお待たせしている形になりますが、読者の皆さんには、まげてお許しをお願いします。
小澤さんの体調は相当悪いとは伺っていました。ご逝去の報を受け、一つの時代が終わった感が否めません。
東京藝術大学の学生たちに挙手を求めても、最近は「オザワセイジ」を知らない21世紀生まれの演奏専攻生も増えていました。
しかし、戦後高度成長期を生きた多くの日本人にとって「世界のオザワ」は、クラシック音楽に興味のない方にも、どこかで耳にしたことのある名だったと思います。
それにはそれなりの背景があった。それも併せて記したいと思います。
小澤征爾(おざわせいじ 1935-2024):日本の指揮者。
戦後昭和のクラシック関係者で、小澤さんと全く縁がないという人は少ないと思います。
筆者も、子供の頃は憧れとして、音楽を専門にしてからは様々な点で接点がありました。
例えば新日本フィルハーモニー交響楽団(新日フィル)では鍵盤奏者としてご一緒し、兄貴の井上道義さんが桐朋学園大学卒業以来30年ぶりに母校に客演したときは、心配して覗きに来た小澤征爾さんの「分奏が必要!」という鶴の一声で、弦楽器のパート練習を任せていただいたことがありました。
また率直に記しますが、専門に入ってからは主要な批判の対象としてきたのも、小澤さんがそれを体現してきた、後述の「斎藤メソッド」でした。
かつて、指揮を志す少年は誰もが白いマオカラーの「オザワルック」のマネをしたがりました。
でも、なかなか良い服がないのです。
少年時代の大野和士さんは、お母さまお手縫いのマオカラー、白のリハーサル服を常用、東京フィルハーモニー交響楽団(東フィル)初期もそのいでたちだったと記憶します。
「憧れから批判へ」は、私たちの世代共通のリアクションだった。
小澤さんの足跡を辿ることは、日本の戦後を確認することに等しい。文字通り戦後の第一歩から、その歩みを振り返ってみたいと思います。