入社した石油探索会社は、世界中から集めた優秀な人間をトレーニングでふるいにかけていた(写真:ロイター/アフロ)

 1990年代にアメリカのシリコンバレーで起業し、挫折と成功を繰り返す過程でユダヤ人マネジメントコーチのハワード・ゴールドマンと出会い、ビジネスの課題解決に向けたメソッドを伝授された大橋禅太郎氏。現在は一般社団法人「すごい会議」の代表として、日本人コーチの指導に当たっている。そんな大橋氏のビジネスのスタートは、石油探査会社、シュルンベルジェのエンジニア職だった。その恐ろしい新入社員時代の話。

※『新版 すごい会議』より一部引用、編集した。

石油の探査エンジニア時代のこと

 大学を卒業して数年後、僕はブルネイ王国で石油の探査エンジニアになるためのトレーニングを受けていた。

 その会社は、新卒でも手取り1000万円ぐらい払っている会社で、社長の給料は3億円といった「やる気」のあるやつにとってはあこがれの的の会社だった。

 世界中から優秀な人材を集めるために、採用枠は全世界で200人。国別に、前年の売上比率によって、その200人の枠をあてていく。日本からはその年、僕を含めた2人が採用された。

 全員を集めての入社式というのはなく、16人ずつのグループに分けられ、僕らはシンガポールのホテルで、厚さ4センチほどある書類群に次々とサインさせられた。

 途中、インド人のサンディープが、人事担当者にあれこれ内容の意味の確認をしながらサインをしているのを見て、横に座っていたベネズエラ人のセルジオが小声で僕に言った。

「『命あずけます』と書いてあったとしても、ここまで来たらサインするしかないんだからカッコつけんじゃねーよ」

 たしかに、まあそれに近い状況だった。

 もろもろの手続きの最後に、人事担当者は厳かに宣言した。

「これで君たちのファイルができた。あともう一つ、我々人事部には大切な仕事がある。それは次の世代の社長候補を見つけ、将来社長になるためのトレーニングをすることだ。

 君たちのファイルには、『退職するときにどの職位まで行っているか』という予想欄がある。『平社員』と書かれるやつもいるし、1年にほんの数名『社長』と書かれるやつもいる。今はその欄は空欄だが、3年以内に何かが書き込まれる」

 全世界から「やる気」のあるやつを集めているわけだから、16人とも多かれ少なかれ「あ〜、それオレのことね(将来の社長)」という感じだった。

 もちろん僕だって、その例外ではなかった。