――慶応4(1868)年4月11日の江戸開城に先立ち、4月9日に静寛院宮(和宮)は清水邸、翌10日に天璋院は一橋邸へと、江戸城大奥から退去した。この時、諸道具は封印して帳記した上で引き渡したとされ、一方で城内には大砲・小銃が夥(おびただ)しく置かれていた(*1)。大奥の諸部屋は壁に狩野探幽筆の三幅対の掛け軸を掛け、床に金銀製の鶴亀などの飾り物を置き、違い棚には硯箱・香道具一式などを据え、美麗に装飾したとある(*2)
(P76・野本禎司「江戸城無血開城と大奥の最後」より)

(*1)「江城請取顚末」(明治6[1873]年、水野忠雄筆。徳川美術館編集・発行『天璋院篤姫と皇女和宮』所収)
(*2)永島今四郎・太田贇雄編『新装版 定本江戸城大奥』(新人物往来社)

よしながふみ『大奥』第19巻P188より ©よしながふみ/白泉社よしながふみ『大奥』第19巻P188より ©よしながふみ/白泉社

 よしながふみの『大奥』では、江戸開城の折、瀧山が指揮を執り、大奥が見事な幕引きをしたのちに、自刃しようとする。

よしながふみ『大奥』第19巻P181より ©よしながふみ/白泉社よしながふみ『大奥』第19巻P181より ©よしながふみ/白泉社

 しかしながら、史実では、瀧山は自殺未遂をしていないし、江戸開城を仕切ってもいない。